ろを、結局東京にいて、暑いわねとあなたに云っているのが、やっぱり自然だというのだから、自然[#「自然」に傍点]のふところは大きいものです。
 きのうは、ブランカが、自分のよろこびをあらわすとき、どんな身振りするのだろうと思いました。あの話にはブランカのそういう場合は観察してありませんね。あんなブランカだから、うれしさを抑えるなどということは、自分の好奇心をおさえかねると同じように抑えかねるのでしょう。白い毛をどんなに波うたせ、どんなに眼をキラキラさせ、尻尾をどんなに房々とゆすりながら、ロボーの見事さ、美しさに傾倒するでしょう。堂々としたロボーは、たてがみにふちどられた首をいくらか傾け、鋭い鼻と、智慧の深い眼差しで、ブランカを眺めるでしょう。ブランカが、美しいと感じる感じを抑えかねて我知らず唸るその気持は、人間の私にもよくわかります。立派な美しさというものは何と抵抗しがたいでしょう。
 何とも云えず立派に、美しい。というような美をもっている女のひとは、大変すくないのね。女の生活が、そういう美の内容を与えにくいのでありましょう。周囲のマさつを、悠々と越してゆくだけの力が、種々な面で不足していて。ゲーテ、アポローなどと云うけれど、旧い旧い常套です。美の範疇は遙か前進して居り質をかえています。私は自然の美しさ、微妙な趣をよく感じることが出来て仕合わせだと思ったことはこれ迄度々あり、人間の美しさ肉体と精神の極めて高貴な調和もよく感じ、そのことにも深いよろこびを見出しているけれども、時にそれは又新しい力で心をうつものとなります。
 折角養生していらっしゃるのだし、手紙余り長くなく度数の方で加減いたしましょう。その方が便利でしょう? 私の愛好する二重唱の全曲とすれば、これはほんのほんの序曲というところですね。

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(比治山公園旧御便殿(広島)の写真絵はがき)〕

 七月二十三日 エハガキが段々払底になり駄作連発。この間うちお送りした紀州田辺の風景のうち扇ヶ浜というのがあってそれはそれは虹ヶ浜に似て居りました。六年前の夏、お母さん、山崎のおじさまなどと砂浜の茶屋に一日休んだときのこと思い出し、その松の下を歩いた人の心持を思いやり一寸やきもちをやき、とかいたけれど、あんまり虹ヶ浜に似ていて、私の心に小説が湧くので、御免を蒙って其は私の筐底《きょうてい》ふかく蔵すことにいたしました。

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(土畑鉱山従業員居住地の写真絵はがき)〕

 こんな山の景色は、暑い蝉の声を思いおこさせますね。富雄さんの新しいアドレス。中支派遣槍第二三四四部隊川之上隊です。隆ちゃんところは、いつぞや教えて頂いたままでよいのでしょう、新しい変りはきいて居りません。きょうは八十六度、風涼し。きのう出かけてつかれて夜九時すぎからけさいっぱい十四時間眠ってしまいました。大したものと、およろこび下さい。

 七月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月二十五日 きょうは日曜日。咲枝は日本婦人会の勤労奉仕で朝から出かけました。私はきのうの午前、きょうの午前とかかって、やっともって来たあなたの夜具その他を整理いたしました。今午後二時すこし前。八十五度。でも風があってきのうよりは汗の出が楽です。大体今年は風のある夏と感じるのよ。哀れに、滑稽と申すべきでしょう。
 工合はずっと同じでいらっしゃいますか。風は通しても横になっていらっしゃる背中はかなり暑いことでしょうね。片方へ横になっていて、自分では手勝手がわるいが背中のところパタパタ風を入れて、すぐそこへ臥ると、いくらか涼しい気がいたします。夏のかけものは、もしかしたらそんな綿の入ったのでなく、タオルのようなものがいいかもしれませんね、シーツいかがでしょう。大丈夫? シーツはどこでも恐慌で、大やりくりよ、あなたのおつかいになって、一部分のぬけたのをつぎ合わし、お下り頂戴しています。なかなかよく眠れて結構です。
 夜具は地がきれたのに、綿はきれず、十年前のいい綿は本当に綿らしいと感服しました。いつだってあなたの夜具は、膝をお立てになるところが綿切れして閉口していたのですものね。それに、あれにはどっさりあなたの運針のお手際があって、解くのも面白く、ひとりで二階の畳廊下で、青桐の風をうけながら折々笑いました。なんてがん丈に、とめてあるでしょう。まるで、ここを止めようと思う、と糸が自分で云って縫っているようよ。そして、唐子《カラコ》の頭のようにこぶこぶだらけで何と愛嬌があるでしょう。ピョコン、ピョコンとこぶたこがあって、僅かのところがギリギリからげてあると、お気の毒と感じるばかりですけれども、この位連続してお手際が見えると、いろいろ
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