筆 パリ・ノートルダムの写真絵はがき)〕

 これがせむし男のノートルダムです。右のはずれにみえる広告塔のようなものはパリーの共同便所でブドー酒くさいおしっこが流れ出ていることがよくありました。春のはじめらしい景色ですね。
『世界外交史』の第二巻買ってお送りします。岩波から野尻重雄という人の『農民離村の実証的研究』という本が出ていて買いましたが、統計が多くて今の私にはこなしてもらえないので、もしよかったらお送りします。面白そうな本です。なかなか細かく真面目にあつかっているようです。
 今日も寒い日ね、私は綿入羽織をきて針差しのように丸くなっています。

 一月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 一月二十六日
 今日は、今年始めての時雨た天気ですね。私は天降って食堂の炬燵《こたつ》に仲間入りしています。アアチャンの処へお客様で、スエコと二人切りになったから、好機逸すべからずと云うわけよ。
 今日は火なしだと河鹿簑之助だから、スエコは此処を離れては、字なんか書けないそうです。(意地悪でしょ)
 昨日はギリギリの時間でお目にかかれ、色々の様子を伺えて、何となく安心しました。心配していると思ってもいないのに、こうやって安心するところを見ると、やっぱり安心の程度が極めて微妙にあると思います。そちらでも同様の気がなさるでしょうか、そんな工合に家のポワポワ前髪は姉さんの様子を伝える事が出来るのでしょうか。
 お体がいくらか確りしたように見えたそうで、本当におめでとう。そして、遠大な計画で語学をやっていらっしゃるらしく、結構ですが、叱言はきっと日本語以外では仰言らないでしょうね。外国語が達者な人でもフッと腹がたって悪態をつく時は、思わず「バカヤロウ」と云うわよ。
 足袋のこと承知しました。何とか工夫して裏をつけお送りします。本のことも判りました。
 今日、お手紙を戴いたから、昨日のこと以外の用事も判りました。島田への本はその通りで結構です。前知らせなしに送った本は、家からではなくて、『ギオン』を貸してあった人が、いい本だと思って送ってくれたのだそうです。カロッサ全集は、二つの本屋から出ていたらしいけれど、どちらも纏まって家にはなく、一冊ずつ集めています。
 間二日飛んだので、この辺は昨日の絵葉書と重複してしまいました。
 今日も曇った時雨空ですね。月がもう下弦になりました。二十日から二十三四日迄毎晩明月で二階の東の窓から高いさいかちの黒い梢と屋根屋根がその光に照されていました。私は窓を開け、月光を一杯に差込ませて、然し寒いから境の襖を閉めておくと、注ぎ込む月の光は、音にたつような感じでした。
 そう感じながら、こちらで坐っていると、光の音と心の内にある声とが互に溶けあって私はもう黙っていることが出来ず、電気の下でザラ紙の帳面と軟い鉛筆とを持出します。5Bの鉛筆はだいぶもう短くなったわ。大事にすっかり短くなっても、それを捨てずに持っているのは、楽しい処のあるものです。二十三日の晩は風がありましたね。夕方から夜になりかける頃、ガラス戸がなる位だったけれども、十時頃になったらば、風は落ちて、さえた月の下に、枯れた木の枝々が美しく見えました。
 そちらでは高いガラス窓から月の光が差す時分、どんな景色が見えるでしょう。私は杉の木や、ひよっ子や、芝を見ました。
 二、三日前、古い反古《ほご》を整理したら、(抽出しの棚を又出して机の横に置こうと思って。)シャバンヌの女を描いた絵の葉書が出て来てよくみると、なかなか面白いものでした。背の高い肘掛椅子に裸の女が、その高い背にのんびり二つの脚をのばしてかけ、片方の肘掛に頭をのせ、片手を自然もう一方の肘掛にのせてくつろいでいる構図のデッサンですが、いかにもシャバンヌらしく、清楚で、よけいな男の感覚が付きまとっていなくて心持がいいものです。
 国男さんがお歳暮をくれたので、到ってわずかな物ながら何か残る物をと思って、心がけていて、日頃ごひいきのドガの踊子のデッサンと額ぶちを買い、今それが一間の壁にかかっています。いかにも創作的な活力と、眼光とが漲っている作品で、部屋中が確りと落着いて来ました。私は本当にドガが好きよ。すえ子も。この部屋が初めは全く病室風で、それがだんだん居間らしくなり、さてこの頃は居間であるが、ただの居間ではないと云う処が出来てきて、この変化を興味あることに思います。
 近頃、本が読みたくなって、それを読まずに来月一杯は暮そうと思うから、何とか気紛しが必要で、いくらか集注する必要もあり、将棋でもやろうかと思いますが、生憎なことにお師匠さんがそちらにいらっしゃるから困ったものです。幾何をやろうかと思ったら国男さん曰く、「姉さん、そりゃあ頭を使い過ぎるよ。」おまけに唯一の相手
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