の奥さんは私の身を思いやって見舞まで心配されました。そういう人たちの篤い心からはなれたのは、その女の人の自身の責任ではないでしょうか。
 こんなこともあるし、又昔印刷工だった小説家が、郊外にひっこんで、瓦一枚ずつ書いてためたという家を建てたとき、周囲はそれを軽蔑しました。けれどもこの作家は自分の弱点を生活者らしさで知っていて、伏せの構えをはじめからやって、現在も肱でずるように「日本の活版」というような小説を書いています。印刷技術の発達史のようなものらしい。その時分軽蔑した人が、現在になって二百円の着物だタンスだ家だと、その人が引越したよりもっと田舎にさわいでいるという姿を思い合わせ、私としてはやはり感じるところがあります。人々の姿は、実にくっきりと浮き彫りにされる時期があるものね。そうやって、私はこうやって坐っているぐるりにすぎないが、いろいろ眺めて、学ぶところも少くなく、大切な時期の私心から出発して一歩が、どんな結果を招くかということについても軽く考えては居りません。そういう判断に当って一箇の才分とか自分[#「自分」に傍点]の見せ場だとか対立の感情(まけた、勝った、世俗的な)だとかが、どんなに邪悪な作用をもつかも知っています。どうぞ心配なさらないで下さい。本当に私はそういう細々としたことからは自由なのですから。もうすこし文学者として欲ばりよ。妻としてこの位欲ばりなのだから作家としてよくばりだって当然というわけでしょう。仮に欲がはりきれなかったとしたら、其は私の自身への敗亡です。それに、そういうことは技術(生活の)の熟練不熟練ということにもかかっていてね、やりくり上手、或は質素の習慣、又生きるための働きに対して勇気をもっているかどうか、ということにも大いにかかわります。多くの人は、生活のための働きの必要というときすぐ手もちの仕事を下落させてそれで食おうとするが、それは間違いですね、特に芸術にあっては。レンズみがきをした哲学者なんかやっぱり歴史的人物たるにふさわしい生活力をもっていると思います、ひどい小説をかいてくうより、別の職業でくって、小説は文学として通るものだけかいている方がいいのです、そういう自分の評価のしかたには勇気がいります。だから縺《もつ》れ合ったまま奈落の底へ、ということになるのね。「娘インディラへの手紙」は、歴史として面白いばかりでなく、人間は誰でも境遇というものから脱すことは出来ず、その改善のために腐心するのですが、そればかりで人生の意味はつきていないということを考えさせる点で深い意味をもっていると思いました。よく境遇にうち克って云々というとき、何か常識ではその悪条件を廃除しきったようにうけとるけれど、現実にはそうではないのね。決してそんな生やさしいものではなく、雄々しい狼のように一つの足にはワナを引きずっても行こうとした地点へ行ったということなのね。シートンの「動物記」にロボーというメキシコの荒野の狼王の観察があります。すごく智慧が発達していて、どんな毒薬もワナもロボーをとらえません。が、シートンが見ると、いつもロボーの大きい足跡よりちょいと前へ出ている小チャナ足あとがあって、それが妻のブランカだとわかるの。白をブランカというのね、純白の非常に美しい牝で、牡狼ならロボーが命令を守らないとかみころすのに、ブランカには寛大です。
 シートンは、そのブランカを先ずひっかけました。ロボーの慟哭の声が夜の野にひびきわたります。ロボーはブランカを可愛がっていたのよ。シートンの動物の知慧も私から見れば憎らしい。ブランカの体をひきずってワナに匂いをつけます。ロボーは泣きながらブランカの匂いをさがして来て終にそのワナにかかります。シートンはさすがに首を〆めてしまえないで、そのままワナからはずして縛っておいたところ、自分の君臨していた荒野を見守ったままロボーは人間を見向きもせず、王らしい終りをとげます。シートンはロボーの顔をスケッチして、その日にデューラーの版画みたいに王冠をのせ、RoBo 何とかラテン語書いていますが、このシートンという男はアメリカ人らしい生活ぶりで、或地方の賞金つきの野獣狩りなんかにも出るのね、ロボーには一千ポンドの賞金がついていたのですって。
 私はシートンの話はいつも面白いが、こいつはきらいで悲しいわ。ロボーのために悲しみます。そして一層ブランカのために身につまされます。こんな賢い野獣でさえ、その智慧の最上の点で牡に及ばないという自然のしわざを悲しみます。ブランカは好奇心がつよくてロボーが止れと命じて一群が皆止ってもチョコチョコロボーの先へ出たり横へ走ったりして悲劇を招くのよ。ブランカのひっかかったのはロボーがちゃんと警告する本道の上のワナではなくて、わきの草むらに何気なくころがされていた牛の頭の一つで
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