傍観そのものが文学の敗退を語っているようなものになるのだと思いました。
 谷崎の方は、根が単純な官能に立っているから、年をとるとあくが抜けざるを得なく、あくがぬけたあとにのこるのは常識で、念仏っぽくなるという仕儀です。
 日本の近代文学におけるデカダンスというものもこれまでの評論は、どこまでつきつめているでしょう、肉体に対してだって谷崎なんかつまりキレイなものをキレイとして見ているので、ストリンドベリーの肉体の描写の美しい動物らしさは一つもないと思われます。私はバネのゆるいおぼれかたはきらいよ、ね。
 きょうは午後じゅう書いてしまったのよ。
 もう暗くなって来ました。階下に干しておいたあなたの袷、誰かいれてくれたかしら。さあ見て来なくては。そして夜はその袷のとも衿をとりかえるのよ、御覧になったら下手で、きっとすぐわかるでしょう。きょう、ふとんやに坐布団縫いのこときかせました、ひきうけるかしら。
 この紙はペンの先を案外に早く悪くいたします、そしてかきにくいのよ。この頃の手紙の字はきれいでありません。気ががさがさしているというのではなくて、画をちゃんとひっかけて、きっちりかくとしみて、スースーとかくでしょう? だからいやな字になるのよ。

 十月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月九日 土曜日
 雨の音が同じようなつよさで聴えつづけて居ます。ひさしを打つ雨の音、屋根にふる雨の音、葉から葉へしたたる雨の滴、それらがみんな一つにとけ合って、かすかにきわだついくつかの音の奥に柔らかく奥ゆきのある雨の日です。
 私は机の前に居ります。紫の前かけをかけて。雨の音とともに、粒々と鳴るような気持で、この部屋に云わば巣ごもっているのよ。そして、どっさりのことを感じ、その感じを味い、考え、どうしたらあなたにうまくものを書く妻らしくつたえられるだろうとも思ったりしている次第です。
 きのうの夜から、私の心も体も充電されたようになっていて、それはとても自分一人で沈黙の中に消しきることが出来ません。それらはどれも私から生れることを希っているのですもの。その希いは余り激しくてね、私を休ませないのよ、燃えたたせます。物語や断章やになって、それらは翔んでゆきたいとあせっています。
 その一つの物語。
 山と谿谷の景色の非常に美しい崖に一つの城がありました。山はなだらかに高く
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