、その上にはひろい天がかかって居ますし、谿谷の襞《ひだ》は地球が熱かった時代の柔かさと豊かさを語るように幾重にも折りたたまれ、微妙な螺旋を描いて、底の川床までとどいています。景色の美しさにもかかわらず、そのあたりは自然の深さのなかにかくまわれていて、人跡が絶えています。山と谿谷を明るく又暗くするのは日毎にのぼって沈む太陽と、星と月ばかりでした。川床に流れる水は、常に清冽で、折々見えない力にうながされたようにその水量が増し岸の草をも燦くしぶきでぬらします。しかしその濡れ、きらめく草の愛らしさを見るものは、やはり人間ではありませんでした。大抵は月ばかりでした。
 崖上の城はいつ建てられたのでしょう。古い城と云えば、大抵茶っぽい石でたたまれているのにその小じんまりとした城は白い石でつくられていて、円柱がどっさりあって、どうしても戦いの砦のために築かれたものとは見えません。
 山と谿谷の自然の抑揚の中に、一つのアクセントとして、或はその起伏を最もたのしむよりどころとして、寛闊に、音楽的に建てられたものらしく思えます。不思議なことに、その城にも人が住んでいません。白い円柱《コロネード》の列や滑らかな曲線の床を照らすのは、やはり太陽と月とであり、そこをめぐって吹くのは風ばかりです。
 とは云うもののこの城に人が住んでいないというのは本当でしょうか。何故なら、城の隅から隅まで一ところとして無住の荒廃は認められません。手入れがゆきとどいているような艷が谿谷を見おろすテラスにも、円屋根のあたりにも漂っていて、古びたおもかげはなく、たとえば、城そのものが自身の白さや滑らかさやを養う力を自分のうちにたくわえているか、さもなければ、ここにふる夜毎の露に特別な恵みがこめられていて、いつもそれを新しさで濡らすかのようです。こうして、静かな時の中を山と谿谷と白い城とは不思議な呼吸をつづけて居りました。
 ある秋の日のことでした。その日は大して特別な天候というのでもありませんでしたが午《ひる》からすこし曇り出した山上の空は夕刻になるにつれて落付かなくなって、すこし葡萄色がかった紫の雲足は迅く、折々その雲のさけめから見える紺碧のより高い天の色とその葡萄色がかった雲とは、極めて熱情のこもった色彩で白い城に反射しました。川は迫って来る大気の中の予感にかすかに震えるように光って、低いところを走っています。
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