、プロテスタントでしたが、ルッター派が、旧教に対して、「僧侶の敵」たる自説を強調する余り、ひどい宗派主義にかたまっていて、聖書にかいてないこと――地球は自転するという事実――を科学者が研究するなどということはひどい反対をうけ破門され故郷の大学にはうけいれられなかった。こんなことも、ルネッサンスを皮相に考えては、変な、わからない暗さでしょう。
 このケプラーの時代は雄渾な才能の時代でガリレオ・ガリレイはケプラーの地動説が本になったとき、ラテン語の手紙をよこして、自分は同じ考えであったが、発表する勇気がなかった、とルネッサンス本場のイタリーから書いてよこして、ケプラーから却って、先生ほどの世界の誇りたる学者が、何でそれを御憚りになる要がありましょう、神の創造は完き調和にみちて居り、それを明らかにしてゆくことこそ神への最もうるわしき献身でありますという鼓舞を与えています。ガリレイはそれで力を得て発表して、ああいう始末になったのではなかったかしら。その点、ガリレーもケプラーも、其々の居住地の特性をすこしあやまって考えたのでしょう。ケプラーは小さいドイツの諸公国領をあちこち追われて転々としてプラーグにも住んだりした――ここで有名なデンマルク貴族天文学者ティホ・デ・ブラーエの助手として貧困な生活を送り、その死去後ドイツ皇帝づき天文学者となり、最後はカイゼルが未払いだった一万数千の俸給を請求に出た旅先でケプラーは死にました――けれども、そして絶えず、新教徒として生命をおびやかされ又正統的でないと新教から排撃されたが、しかしプロテスタントの土地に住み、その波にもまれたのでした。ガリレーはちがいますからね。ケプラーはふるえる手で、ジョルダノ・ブルノーの焚殺をよみました。後年はワレンシュタインが新教徒殺戮の只中でケプラーを庇護してワレンシュタインの没落と共にケプラーの一生も自然終ったのでした。
 ケプラーの時代の大波瀾は、一年としてドイツの諸都・市を平安にしていなかったのが年表を見て分ります。何しろたった二つのときに、ネーダーランドとスペインとの間に大戦争がはじまり、フランスではバルソロミョーの大虐殺がありました。ケプラーの祖父は小さい公国の市長だったが、父は当時のドイツが傭兵市場であって、その一人となって、フランダースで旧教の兵となっていた有様です。分散して経済的にネーデルランドなど
前へ 次へ
全220ページ中151ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング