アリズムで、自然主義で描いて、わめく顔、ぞっくり揃った剣先とかむしろ動物的にかき、効果をクラシックに迄持続させる芸術性にかけて居ります、いやなきたない絵をかきます、しかし藤田はそういう要求でかくものに古典たらしめようと意気ごんでいるし、その努力のために芸術となっています。この事実を、同業人は何と見ているでしょうか。
文学では、やはり同じ問題があります。もっとむずかしく複雑ですが。報道班として南へ行ったのは何人もいるが、人間として文学に新たな一歩をふみ出したのは何人でしょう。
尾崎士郎は、よく経験したらしく、日記を集めたものをよむと、文学について、人物について困惑されるところが生じて来て居ります。しかし思うことは、ね、そういう成長と同時に、文学者は(現代人)深い感慨にうたれたとき、何故みんな漢文調になるのでしょうか、ということです。なるというよりもおのずからならざるを得ないのはどうしてでしょう。尾崎にしろそうです。文学論、人物論そのものは、大きくなっています。腰もすわって来ている。南まで行って女買いしたくもないだけのところがあります。だが、漢文調になるのよ。
日本の文化伝統と感情の新しさということについて考えます。まだ、何でもなく書いて実に深い感銘とスケールとを示すような感情の質が、もたらされていないというわけでしょう。したがって、文学の新しさというものも本質はそこにかかっているところがあるわけです。漢文調の人生感、且つ人物完成というものは油断なりません。これは、まだまだ私に宿題を与えて居ります。日本文学は漢文調を脱却しなければならないのですから。
九月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十八日
大人たちは皆居なくて、庭で太郎とその弟分たる隣のミチルちゃんという子供との声がしています。私は風邪気で、妙な顔をして居りますが、面白い本を読んで亢奮を覚えているところです。
その話の前に一寸した物語があります。それは「二輪の朝顔の花について」です。この頃咲く朝顔が花輪は小さくて葉がくれがちながらも、真夏よりは一層色が濃くなりまさっているのを御存じ? そういう朝顔が一本はそのつるのよこに濃藍の花をつけ、他の一つはそれより柔かいすこし桃色がかった花をつけています。二つの鉢が並べておいてありました。ふと見るとね、濃藍の花がいつの間にか薄桃色っ
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