来る絵勉強の女の子がかしてくれました。
 私は今にこの気に入った宗達について、是非何か書きます。書いてみたい画家などのことちっとも知らないが、本ものの芸術の気品というものについて云うなら、写楽をかきます。本ものの芸術の流動性、計画性、写実性、いのちのゆたかさというものについて云えば宗達をかきます。写楽って、ああいうあご長やどんぐりまなこの人顔を描いたが、犯せない気品があって堕落した後期の歌麿の、醍醐の花見の図の絵草紙的薄弱さとは比かくにならず又、偽作はどうしてもその気品を盛りこめないから面白い。あんな生き恥のような晩年の作品をのこした歌麿さえ、仕事を旺《さかん》にやった頃はやはり気品が満ちています。遊女を描いてもそこに品性がありました。芸術として。芸術が稀薄になって来るとき生じる下品さは、憫然至極救いがたいものね。才能の僅少さの問題ではありませんから。いつか宗達のエハガキを手に入れて見て頂きとうございます。きっとあなたも賛成して下さいます。歌麿は余り売れて、濫作の結果、井戸を汲みつくしてしまったように消耗涸渇して、あの位晩年下らない作をつくった大天才は絵画史にも例が少い由。文学の世界には例が少くないけれども。歌麿のカマドの前で火ふき竹でふいている女とかま[#「かま」に傍点]のふたをとろうとしてその火の煙でしかめ顔している女との二人立の絵や、髪結いと結わせている女との絵などは、頽勢期の前のもので、大変見事です。婦女(働くという意味の言葉が入って)十態とかいうものの一部です。こういう女たちは快く描かれています、ふっくりと肉つきもゆたかで現実の愛らしさで、ヒョロヒョロと長くて細くて何ぞというと不必要に下着や脛を出したがっていなくて。あんなデカダンスの時代にもこういう女たちはこんなにすこやかで、庶民的ユーモアをたたえていたと思われます。
 きょうは計らず、雑誌みせてもらい、うれしまぎれに絵のことばかり喋って御免なさい。その雑誌にセザンヌのいい素描や何かもあって、その柔らかさ確実さ。宗達の泳いでいる水鳥の水墨といずれおとらぬ風情です。セザンヌは変りものと云われてひとに体にふれられるのを実にきらったのですって。フランス人は表情的によろこびや何かあらわそうというと、すぐ手をとる、肩をだく、互にだく、接吻する。セザンヌがそういうマンネリズムの表現をきらい、男同士のそういう感情のグニ
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