ャグニャしたのをきらったというのもよくわかります。表現とジェスチュアとの区別、見さかいを失った鈍感さ、として。崇拝者の一人であるレオ・ラルギエーという人は、そのさわられぎらいのセザンヌが自然にその腕をとったりして歩いた唯一の人物らしく、ラルギエーは、それは自分がごく注意して、自分がセザンヌにさわることをよけていたからだろうと云ってかいています。そしてさわられぎらいを些かシムボライズして、それはセザンヌの一生の芸術家としてのひとからさわられぎらいを示したものではなかろうかと云っています。セザンヌの偉大さというものの稚朴さを考えます(そういう態度の歴史性を。自己というものの守りかたの表現として)セザンヌは若いときゾラと親交があったのよ。ドルフュスのとき、ゾラがロンドンへ行ったりしているときセザンヌは、あいつは相変らず気ちがいだと云って田舎に引こんでいました。ドラクロアが、ロマンチック時代に生きた生きかたとは大ちがいでした。しかしながら彼は彼なりに本ものだったのね。
隆治さんにクルクル巻の雑誌三四種とりまぜ送り、手紙も出しました。南の方は手紙その他不便らしいのね、ついたらよいと思います、せめて手紙でも。あなたがもう四通ばかりお出しになったとかきもいたしました。あちらからは届きにくいらしいけれど、こちらからのも何しろ書留うけつけずですから。
いずれにせよ丈夫ならいいわ。民間の勤人も、たよりのないのは生きているしるしということになっている由です。死ねば家へ知らしてくるからというのです。
鏡を見ると私の右の眉のところに一本立てじわが見えます、眼の工合がよくなくて、いつの間にかつくのね。眉宇の間晴朗ならず、というのは、人相上大していいことではないのよ、精悍の気が漲るというのも「眉宇の間」ですもの。
折角女にしては眉と眉とがはなれてついていて、すてたものでもないのにたてしぼがついては価が下ってしまうことね。おでこの立しぼの犠牲においてこういう手紙もかくというと、まるであなたのためにだけ書くようですまないことです。
六月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月十九日
十四日のお手紙ありがとう。あれは十六日につき八日朝というのも頂いて居ります。私の方からのが五日以内につくとはうれしいことです。先ず用事を。マホービンのこと承知いたしました。どの程度に役
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