ルザックは家に全集が一冊もなくて、何とかして手に入れたい心持でいた処でした。どんな都合にゆくでしょうか。私も「幻滅」は是非よみたくて居りますが、河出につとめている人にきいて、算段してもらいましょう。スタンダールは「赤と黒」は不許でした。「パルムの僧院」「恋愛論」等、ちりぢりにありますが、選集は家には有りません。サンドのものは割合に訳されているものは集っています。これから先へお送りしましょう。フランスは、あんまり有りません。昔読んで集める気がなかったものだから。「支那イソップ」が家の本棚にあるそうですが、昨今はその本棚もだいぶいろいろなことで掻き廻されているので一層見当が付きませんが、調べてもらって見ましょう。「シンプル」の下巻まで待たない方がよかろうと云う話には同感です。
それからね、栗林さんのお金のことを読んでいた人は「アラッ」と云って頭のてっぺんを押えました。「こりゃあ」と云って目玉をおおいに動かして、まだ送ってなかったと云うことでした。今日送ります。これには何でも言いわけがいるのだそうで、以下の如き次第です。(どっちみち送らなかったのですから、言いわけは止めにします。スエコ)
「マルタ」が出入り禁止とは、オールゼシュコも思いがけなかったでしょう。そちらでお読みになって興味のある小説以外の本を、こちらへ送って戴けたら、だんだん読み手を頼んでよもうと楽しんでいます。スエコも読み手志願をしていますから。けれども、この目の調子では今に一日に数時間ずつ、そのことだけしてくれる人を見付けなければなりません。目は見えなくても、世の内は矢張り面白く急速に進歩しているのですから。
今日は書き手が私の用事でもう出かけなければならないから、これでお止めにしてまたに致しましょう。ね冷えをなさらないように。こちらは大丈夫ですが。
名前だけがはみ出るとのことで一ページもうけました。この頃は気分がよほど普通になって来て、花を見たいと思ったり、音楽をききたいと思ったり致します。それに、いつの間にやら、スエコが育っていて、読んでいた色々の本の話やスエコの音楽論等と云うものを拝聴する時間が相当あって、思いのほか楽しい病臥生活です。スエコもあれではにかみやだものだから、音楽論等と云うものは門外不出ですが、こっそりもらす処をきけば、相当に目がつんでいて下等品ではありません。決して不肖ではないから一安心です。然し創造的な仕事は体力が消耗されるので、それと戦うのがこの頃の食物では一仕事で、しかも私のように死んだことがあると云うのでもないから、つい丈夫な身に扱われて折々閉口しています。
八月三十日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 コロー筆「樹陰」(一)[#「(一)」は縦中横]、柚木久太筆「八甲田の一角」(二)[#「(二)」は縦中横]の絵はがき)〕
(一)[#「(一)」は縦中横]二十六日附の御本の要件について。一、御注文の本はどれも品切でこれからも心掛けておいて、手に入り次第お送りします。「結核」はお医者様が持って居られるかも知れませんから、お聞きしてみます。フランスのは『昔がたり』が一冊だけありました。先、英訳で読んだ本は十年前に売った本箱に入って居ました。サンドはあるだけお送りしました(六冊)本のないのには実に閉口です。冨山房文庫は殆んど廃刊同様の有様です。手紙は又別に。
(二)[#「(二)」は縦中横]本の話の続き、今朝はこういう字を書く方のペンが可愛い花模様の着物で現われたので、早速電話もかけられましたが、どれもなかったのは残念。岩波文庫に新しくジャムの散文詩と、オースティンの『説きふせられて』スタンダールの『ヴァニナ・ヴァニニ』などが出ているようですから買っておきましょう。こちらでお先へ拝見してという風に行けば誠に好都合なのですが、私の目玉の代用品は今のところどちらもミュウズの申子だから、時々創作的情熱という病気にかかって代用品の方を廃業するので、これもやはり至って焦点がきまりません。多分先へお送りする様なことになるのでしょう。隆治さんへの本願います。
八月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕
八月三十日
今は、二十九日の夜です。やっと太郎がねて泰子が母さんとお風呂に入って、あたりは静かになり、虫の声が、耳につくようになりました。二十六日と、二十八日とのお手紙二つ枕の下の蒲団の下に敷きおさめて、機会やあると、スエコの飛び交う袂を眺めていましたが、忙しかったり、へばっていたり、さもなければ何となく柳眉の辺が気遣われたりして、それをとらえたのは、只今です。もっとも寿江子の名誉のためにお断りして置かなければなりませんが、機会をあたえるとなれば、全く自ら進んで、提供してくれるのですから、私は大変安心してよろしいのです。
今日は本当に暑かったこと。九〇度を越しましたろう。今日のように暑いと、あの半ズボンが、またお役に立つわけでしょう。三・四日前は、お送りするのが遅すぎて季節はずれのように、思われましたが。
私は暑いと一層、目がマクマクして、気持がいやになります。けれども、今日ではもう氷嚢なしに過せますから、御安心下さい。矢張り神経障碍の一種で、時々「マシン」のようにポッとふくれて、痒い処が出来て困りますが、これも、追々「レバア」の利目があらわれれば、なおるものだそうです。
何しろ、この十年の間には、あれほど心臓を悪くして、やっとなおしたかと思うと、いつかの夏のように、微熱を出したり、目を悪くしたりして、考えてみれば、夏のたびにいくらかずつ健康が低下して来ていた処に、ガッタリと根本から打撃を受けましたから、何やかやと、妙な故障が続発するわけでしょう。気長な養生は只一つの恢復の道です。注射は「B」のほかに「C」も入っているそうです。その他、神経の栄養のために燐剤を飲んでいます。「レバア」は勿論。
この燐剤は、合っているらしくて、至って抵抗力の無い神経が疲れて、少しいらだって来たような時、スエコに素早く一服盛られて、案外の効果を示します。そう云っても、これは決して、眠り薬では有りませんから、御安心下さい。
二十六日付のお手紙の中で、東洋経済新報の件は、当時予約を受付けず、毎月買って入れていたので、継続の分は有りません。ベリンスキイは来ていませんでした。お金は月曜にお送りします。
目の検査のことは、もっと時がたって、体全体の栄養が恢復して、出来るだけ均衡を取戻してからでないと、目だけ切り離してみにくいものなのだそうです。こう云う目の見えなさは、脳の内膜が脳膜炎と同じような状態になって、目のぐるりの神経・血管その他に故障を起させたからだそうで、実際、先月の今頃、夢中だった時には、真赤に充血して、ふくれて飛び出した目をしていたそうです。あの目じゃ、見えっこない、と云う評判で、家の人達は、この頃、兎も角、私が、私の顔になって来た、と云うことを、珍らしそうに感服している有さまです。
昨日は、一ヵ月目であったので、自然話が出て、知らなかった我が身の上話に幾頁かを付け加えましたが、今の私と、前の私との間に、全く自分の知らなかった何日かがあって、しかもその何日かの間に、夜の目も合わさず私を生かそうと努力しつづけた人々のお蔭で、命が保たれて、今日、自覚した生活へつなぎ続けられていると云うのは、何と不思議な気持がすることでしょう。自分の知らない自分のことが、人から話されることで、初めて自分の生活の物となる、と云うことも何と奇妙でしょう。心理学的に、色々と面白いことがあります。例えば、私が、暑くなると夢中で団扇を使ったと聞いていて、それは団扇を手に持ってはいたのだろうと思っていた処、団扇はとても持つどころか、空手《からて》を団扇を持った形にして、あおいで、時には、ぐるりで皆があおいでいる、その風の動きと合ったリズムで無意識にあおぐ真似をしていたのだそうです。反射神経が、そう云う風に生きつづけ、今のように、精神の作用がある程度まで、戻ると、植物的神経などと云うものが、蒙った損害からいつ迄も恢復出来ないで居ると云うような生理のいきさつは、とても自分でも驚きます。
昨日、みんなでハァハァと笑ったことですが、あなたは愛妻の身の上にそんなとんでもないことが起ると云う虫の知らせをお感じになりましたか? 昔小さかった時「虫が泣かすんじゃあ」と泣いた人は、成長して、虫は余り敏感に作用しなくなったかどうかと云うことを話して、大笑いしました。私の方はあんまり急で、云ってみれば、虫を派遣する暇が無かったのですからあしからず。お化けになる支度をするひまさえありませんでした。
二十八日付のお手紙、これは結局、国男さんに読んでもらいましたが、字がいくらか大きかったものだから、何だかよめそうな気がして、おおいに目玉を動かしました。
宛名を力作と評価して下さったことは、うれしいと思います。全く力作で、当分もうあれはくり返せません。午後中、よく目が見えなくなったから。
本に就ては、葉書で申上げました。小野寺十内の和歌は初めて知りました。昔の人は、そう云う場合の感情さえ、こう云う一見淡彩な表現の内に、語ったのですね。あなたのお手紙の内に、歌の出た始めてですから、特別な感じです。今日は、もっと歌の話、その他を、どっさりするつもりで、意気込んで机に肘をつき、耳たぼを引っ張って居りましたが、紙は、何とじき一杯になることでしょう。それに、もうスエコがお風呂に入らなければ、何人かが困ると云う場合に立ち至って、残りは、別便になってしまいました。では一と先ず、これで。
八月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕
八月三十日。
昨日丸っこい小さい小包が着きました。開けてみたらばお話の手拭とタオルで、お見舞有難く戴きました。手拭は見なれた物ですが、タオルはいかにもあちらで出来たらしい気持の良い藍色と、それより細い朱の縞が縁に付いていて珍しい可愛らしいものです。一枚位そちらでも使ってごらんになりましたか? 体をふくのに上々ですが、私とすれば何だかそれも惜しくて、机の処にかけて一寸使えそうな気がします。
メリメは全部を読んだことがないので、むしろ駄作を知らないわけですが、トルストイの全集なんかでも遺稿の内には、未完成の小説で、一つのテーマを、ああ書き、こう書きしてみて、結局物にならず終っているようなものがあります。けれどもこの人の場合は、百姓女をだました地主の貴族が、妻に対する良心と、自分の行動に対する責任感との間に苦しんで、一つの習作では自殺をさせ、他の一つでは結末がつかないまま、中絶していると云うような作者の精神の足どりが窺《うかが》えるようなものです。メリメはああ云う作家だったから、そう云う形で未完成さが現れずに、ただのお話になってしまっていると云う違いが、面白く感じられました。「カルメン」はメリメの作の方がオペラより数等上ですが、あの音楽はなかなか面白いわね。覚えていらっしゃるでしょう? 貧弱な機械で聴いたけれども。
「娘インディラへ」の著者に触れて、歴史家の内には、原本を持っている人もあるようだと云うことは、読みながらも深く感じたことでした。歴史家の歴史を描き出しようもさまざまですからね。百年たたねば歴史の書けない歴史家もある。また、まず人がどっさり本を書いてくれて、その内で文部省の推選図書になったものをお手本にしなければ書けない人もあり。十四、五の女の子にむかっても、真面目な精神は、真摯《しんし》な物云いをしていることは、読者に感銘深くありました。
この間うちから、スエコと話している事ですが、心の内に次から次へと湧き起る色々の心持や考えを、一旦言葉に出して、それを人の手で字に写してゆくと云うことは、何と困難な、時にはバツの悪い、しかもいつも云いたいことはとことんの処で云い残されていると云う工合の悪いことでしょう。心の声を自分の声として、自分の耳に聞くと云うことは、沈黙の内で、気持と紙と語りかける相手と
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