れども、私にしてみれば、やっぱり机の上にかけて眺めるだけの値うちが、新しい意味として籠っているわけでしょう? 今見れば全くきれいよ。この頃ちょいちょい療して[#「療して」に傍点]と云うことに就て考えます。これはどんなにかあなたもお感じになったことでしょう。何年か前の夏などには。夜露は、夜草葉に落ちて、いつかそれを甦えらせます。そう云うもの。療して[#「療して」に傍点]はそう云うものね。

 九月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書 速達)〕

 眼についての速達どうも有難う御座いました。あの先生のことはちっ共思い出していませんでした。大変いい御注意でしたから、早速主治医先生と相談して二人の都合のつく時に落合って頂いて相談しようと思います。今日迄待っていたのは、乱視の度を調べるような単純なことでも、眼の検査には強い光線を眼にあてなくてはならず、それだけの刺激がよくないというわけでした。だからもっと体がしっかりして、神経も安定してからでないと眼の検査の為の作業が脳を刺激して大局的には反ってマイナスになってしまうからということでした。もうそろそろいいのかも知れないけれども、昨今又違った形で神経疲労が出ていて、三四日前に夜一寸芸当を演じたりしましたから、若しかしたらもう少し鎮静してからの方がいいかも知れませんが、今日の内に両方へ電話をかけてみて、相談だけはともかくも至急してもらうことに致しましょう。でもね、この頃は大層成績が上って、上目を使っても目が廻らないし横目も出来るしすごいものです。ひと頃のように枕の上から自然にみえる範囲の伏目勝ちでどっちへも目玉が廻せないという様な有様から比べれば、たしかに人間並になりました。
『ピョートル大帝』の下巻は、もらわなかったから古本で探しましょう。眼の本はどうも有難う。誰が読んでくれるかしら? この字を書く人が二日置きずつにちゃんと来てくれることになったから、私は本当に気が楽になりました。眼のこともいずれ読んでもらいます。家の連中は私がもう死なないことがはっきりしたら、大分タガをゆるめているのよ。おかしいこと。

 九月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十四日
 今日の様な風を昔の人は野分の風と呼んだのは実感からですね。木の葉の音やその中にまじる昼の虫の音を聞いていると、野分としか思えない風情です。昔の人はそこで短冊を出しかけたのだけれど、家では中耳炎になった泰子の泣声がひびいて、看病にヘバリ果てた身重のあーちゃんが次の間で横になっている次第です。人手が極端にないから、こういう突発のことは総動員になってしまいます。泰子は大して悪いのではないから御安心下さい。私だけが家中で泰子を抱かないただ一人の人間です。眼のことは来る十七日の夜、二人のお医者様が落ち合って、先ず乱視の度を調べたり、他の障害があるかどうかを調べたりして下さる予定になって居ります。私は大分用心して、本を読んでもらうことも手紙を口述することも止めて、一週間程過し熟睡するようになりました。マッサージもきいているようです。残暑の長さと凌ぎ難さがしみじみですが、お障りないでしょうか。私がおしゃべりをするとお思いになって、そちらも手紙を下さらないのかしら。歩けるのは(外出)余程先のことだから、どうぞお手紙下さい。薬は色々のがいるものです。友子さんから手紙で九月中には隆治さんが帰る由です。無事に島田の家の土間に立つ姿を考えると涙が浮ぶようですね。お母さんのお喜びどんなでしょう。会いに行けませんから残念です。あの人の胸の中にたたまれている感想の数々についても推察致します。

 九月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十六日
 土曜、日曜がはさまったので十一日附のお手紙昨日午後頂きました。昨日の雨は季節の境目のようで、今日は本当に秋らしい日になりましたが、私はいかにも気がきでない一日を送りました。だって私の紺がすりは戸棚に入っているけれど、あなたのお召しになるのがどこにも見付からないという訳で、しかもそちらにあるのかどうかもわからず、ともかく袷羽織とメリヤスの合ズボン下と、銘仙紺がすりを小包にしてどうやら夕飯を食べました。何しろ冬のジャケツを八月の下旬に私とこの字を書く人とで、やっとクリーニングに出した始末ですから。ポカンとしている時間が体にどんなに大切かということは、この頃身に沁みて感じて居り、そちらでお着になるものを順序よく手入すること位が楽しみの程度に周囲が整理されていたらどんなに心持がいいでしょう。眼の検査がすんで風呂にも入れ、もう少し歩けたら、万難を排して国府津へ行き、この冬を過したいと一日千秋の思いです。寿江子が勉強を始めたらピアノの音とレコードとオルガンとで、ああ
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