との感情交錯をたどった処、その他どうしてなかなか本物のリアリストでなければ書けない描写がどっさり有って、恐らく徳川時代のどんな作家も及ばなかったことは確です。そしてこの人が清少納言と対比されて大変落着いた内省的な身持の堅い女性として、常識家にも評価されているけれど、それは式部が有難やの云うような哲学者だったからではなくて、道長の最隆盛の時代に生れあわせて、その時代の現実にじかにふれ得る程度に家柄も良くて、なお自身大変年上の面白くもない夫を持ち、娘一人を残して死なれ、寡婦の生活を送っていた後、中宮につかえて、其処の気風は万事万端、道長の盛な翼のかげに持たれているような、いわば無気力なふんいきであったから、式部のリアリストとしての感情は、常に或るもの足りなさやぼんやりとした不安や、を感じていたのでしょう。そう云う境遇を知っている女でなければ書けない人物もあって、当時の女の立場と云うものを、哀れなものとして、客観する力もまたその限界の内で、そつなく身を処して行くべき心得と云うようなものをも兼ねそなえていたようです。はっきり中流の女性は自分の力で身の将来をも開いて行こうとする意識があるから、余り上流で、外から尊く飾りたてられている女性や全く無教養な下層の人にない面白さがあると云っている処も女の実際にふれていて面白く思えました。もっともこの人の中流と云うのは、大伴家持がそうであったように国守程度を指しているらしいけれども。清少とこの人との面白さの対比は、つき進んで見てゆくと、これまで面白がられていた以上に面白いらしく考えられます。この時代のずっと末になると藤原氏の力も衰え、女流文学もしたがって衰えて、たまに書いている人は、作品も貧弱だし、書くと云うことに対しての意識が変に外見的なものになって気に食いません。それに就ては、またこの次。
 ついこんなに長くなってしまって、私はもうヘトヘトです。これだけ書く間に、一くぎり言っては「ね」とつける、その「ね」の数は幾百ぞ、です。スエコも疲れてきて、頭が痒くなりました。ではこれで一息ね。さようなら。

「紙って書けないもんだな」とスエコも歎声を発しています。

 八月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 吉田博筆「剣山」の絵はがき)〕

 三十一日
 本郷の方へ出掛ける人に頼んで思いがけず『結核』がみつけられました。早速お送りします。他にフランス『襯衣』同じく『遊歩場の楡樹』スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』とを、みつかりましたからメリメの第二巻と一緒にお送りします。これらは皆お下りを読んでもらうのが楽しみなものたちですからおすみになったらどうぞ。下すったタオルはおばあさんのくれた台の上にかけて床のわきに置いて眺めています。中々きれいで且シャレています。タオルとはみえません。上でこの葉書を書き、ひどい風が外で吹き荒れて私は気分が悪くソボリンをのんで、はいが一匹その箱にとまっています。

 九月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 九月六日夜
 本当にね、仰云る通り二枚以内に致しましょう。この間、自分でもいくらか考え付いたことでした。それに面白いことは、この四、五日、全体として進歩しながら、またこれ迄にない疲れが出ていて、体中の筋肉がしこって、腕など髪をとかすさえ痛い程なので、お医者の紹介でマッサージを頼んだところ、その女の人の云うには、体中びっくりする程凝っているそうです。七回ほどでだいぶ良くなるだろうとのことです。夢中の間に筋肉が緊張していたのだそうで、それが今になって疲れとして感じられて来たのだそうです。つまりやっと其処迄病的な条件が収まって来たことの証拠だそうです。これにつけても頭の内のことが怖くなってね。自分の知らない疲れが結局は一番決定的な意味を持っているのだとしみじみ感じました。そして又この頃は落着いて来た結果、自覚される疲れと云うようなものも実際に有って、今月一杯はうんとぼんやりして暮そうときめていた処でした。
 色々細いこと迄気づかって戴いて、本当にありがとう。だから、二枚以内はお躾けとしてではなく有難く合点いたします。この間うち、しきりに長く話したかったには、色々の気持の理由が有って、考えてみればいくら長く長く話したって矢張り話し切れない心持から云っていた処もあり、一方には自分の頭がどの位正常であるか自分にたしかめたい処もあったと思います。病院のことは、今の私には家での方がずっと良いらしい様子です。食餌のことも病人の特配を受けているし、卵・バタ・果物類は色々な人が心配してくれて、何とか今迄続いて来て居りますから御安心下さい。目の方も九月末にはちゃんと調べます。それ迄は体の基本的な条件を整えるためにかかるでしょう。タオルのことは大笑いだけ
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