十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 八月三十日。
 昨日丸っこい小さい小包が着きました。開けてみたらばお話の手拭とタオルで、お見舞有難く戴きました。手拭は見なれた物ですが、タオルはいかにもあちらで出来たらしい気持の良い藍色と、それより細い朱の縞が縁に付いていて珍しい可愛らしいものです。一枚位そちらでも使ってごらんになりましたか? 体をふくのに上々ですが、私とすれば何だかそれも惜しくて、机の処にかけて一寸使えそうな気がします。
 メリメは全部を読んだことがないので、むしろ駄作を知らないわけですが、トルストイの全集なんかでも遺稿の内には、未完成の小説で、一つのテーマを、ああ書き、こう書きしてみて、結局物にならず終っているようなものがあります。けれどもこの人の場合は、百姓女をだました地主の貴族が、妻に対する良心と、自分の行動に対する責任感との間に苦しんで、一つの習作では自殺をさせ、他の一つでは結末がつかないまま、中絶していると云うような作者の精神の足どりが窺《うかが》えるようなものです。メリメはああ云う作家だったから、そう云う形で未完成さが現れずに、ただのお話になってしまっていると云う違いが、面白く感じられました。「カルメン」はメリメの作の方がオペラより数等上ですが、あの音楽はなかなか面白いわね。覚えていらっしゃるでしょう? 貧弱な機械で聴いたけれども。
「娘インディラへ」の著者に触れて、歴史家の内には、原本を持っている人もあるようだと云うことは、読みながらも深く感じたことでした。歴史家の歴史を描き出しようもさまざまですからね。百年たたねば歴史の書けない歴史家もある。また、まず人がどっさり本を書いてくれて、その内で文部省の推選図書になったものをお手本にしなければ書けない人もあり。十四、五の女の子にむかっても、真面目な精神は、真摯《しんし》な物云いをしていることは、読者に感銘深くありました。
 この間うちから、スエコと話している事ですが、心の内に次から次へと湧き起る色々の心持や考えを、一旦言葉に出して、それを人の手で字に写してゆくと云うことは、何と困難な、時にはバツの悪い、しかもいつも云いたいことはとことんの処で云い残されていると云う工合の悪いことでしょう。心の声を自分の声として、自分の耳に聞くと云うことは、沈黙の内で、気持と紙と語りかける相手とだけで、差し向いな習慣のついている者には、一つの苦痛に近い感じです。文学の仕事と云うものが、どんなに心情的な過程を持っているか、と云うことを改めて感じます。小説がこう云う方法で書かれようとは一寸思えません。それにつけ、ミルトンだの馬琴だのと云う人の仕事した骨折りが、実に考えられ、特に馬琴が、あの時代の特別に学問もなかったお嫁さんにあのコチコチな漢語を一々教えながら、書き綴って行った努力は日記に書かれている以上だったでしょう。でもあの人達にはまだ書けたと思います。何故なら、ミルトンは、ああ云う観念の世界に自分を封じ込めて、其処に君臨していたし、馬琴は矢張りもっと卑俗な程度の道徳感と、支那的な荒唐性に住んでいたのだから。我々の文章そのものに対する感覚から云って、書いてもらって書く小説と云うのは、いかにも出来にくそうに思えます。スエコは、それでも、私がもしすっかり視力を取り戻さない時の用心に、だんだん馴れてゆけばそう云う物も書けるだろうと健気に申しますが、今もこの手紙のなかで、沈黙の「黙」に八つ点ポチが付いてしまったと云って、さながらペンは恐しい自動力をそなえているようなことを云う始末ですから、私として親切に対する感謝と、実際上の見透しとは、必ずしも一致しないのは無理ではないでしょう。恋文の代筆が喜劇のテーマになることは、これとは一寸違うけれど、何だか思い合わされるような処もあります。
 今度は前から持っていたプランに従って、古代から近世迄の女流作家の作品を読もうと思って、万葉や王朝時代の人達の物を幾らかまとめて読んで、色々と面白く感じました。万葉の女性達は和歌の世界へユーモアさえ反映させていて、そう云う生活のあふれた力が雄大さや無邪気さや、強い情愛となってあふれていて、その時代の女性ののんびりと丈高かった心の動きが、気持よく印象されました。斎藤茂吉の『万葉秀歌』上・下が岩波新書から出ていて、それで読みましたが、御らんになる気はないかしら? 紫式部と云う人は、矢っ張り立派な小説家だと思います。よく云われる悪文家だという評判はもっともで、ところどころ眠ったまま書いて行ったかと思うほど、抑揚のないダラダラ文章の処がありますけれども、それはたいてい具体的でなく、わざとぼんやり何かを仄めかそうとしている時で、例えばあのみにくい末摘花の哀れな姿を描写している場面や、玉鬘と養父の光君
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