けれど、ひとによれば、人間の女をたよるでしょう。生活の破れかた、破られなさ、そういうきわどいところね。岡本かの子に死なれた一平は酒ばかりのんで泣いていたらしいわ。
そういう体で経た経験があるのだから光太郎さんが美は弱いものでないという言葉にはこもっている力があるのは尤もです。私たちはその美感に支えられているのだもの。理屈一片にこの人間の心と体とが支えられるものですか。愛情というものだって、つまりはそこまでのぼる階《きざはし》ですもの。いつも思うのよ、人間の本当の美しさの感じが分ると、その人はそれ故に世俗的道義の典型になるところもあると。堅忍とか貞潔とか、石部金吉でなくて、しかもそれはその人にとって乱れがたい自然の統一となったりしてね。そういう美の感じが、代用品でも平気ですまされるというようになることはおそろしいことですね。「美について」は代用品でないでしょう、少くとも、著者が自覚のもてる範囲では。
来年三月卒業のひとたちが十二月にくり上げ卒業になるので、いろいろと影響しています、東大は来年は夏休みなしになるそうです。
肉はすっかり減って、一週間にせめて一度という位になりました。魚は不自由です、野菜もどうやらというところよ。牛乳はうちは半分となりました。ガスも電気もずっと節減。この間目白へ行ったらば、あすこの町会の貯金が二円(毎月)になった由。私のいたときは五十銭だったのが八十銭になったのに。僅か二ヵ月よ。そして公債も買うのですって。さち子さん、つらいわと云っていました。二円というのは、この辺なみよ。あの辺はそういうことも高率だし第一、うちはなかなかそれがむずかしいという人は一軒もないのだから、やり切れないというのもわかるでしょう? ユリが、よ。
今うちの庭には山茶花が美しく咲いています。赤っぽいのはいやに上気《のぼ》せたようで苦しい色ですが、これは白いところへほんのり端々に紅がさしていて清楚可憐よ。机の上にずっとさして居ります。
十條に白い山茶花が咲いていた庭、そこでたべた味つけ御飯。花もいろいろの眺めね。
この山茶花はもう古木なのよ、絶えてしまうと惜しいと思います、何とか植木屋と相談して永もちさせたいわ。
たまによくこんなことも思うのだけれども、さてとなるとやっぱり本をよむ、かく、ほかの用事で実現せず。実現しないところがいいのかもしれないわ、それが自然かもしれないわ、ね。
空想のなかによく浮ぶのはもう一つのこんな場面。簡単な私たちらしい餉台《ちゃぶだい》。そこのこっちに坐って御飯たべていらっしゃるの。こっちに坐って見ているの。そうしてみていると、そうやってものをたべていらっしゃるその様子ごと、自分がたべてしまいたくなってゆく心持が実にまざまざよ。まるで口のなかが美味しくなってゆくようよ。全くさぞさぞおいしいことでしょうね。万葉集にはいろんなひとの面白い歌があるけれど、その人をたべたいという表現はないわ。昔のひとは私ほどくいしんぼうではなかったのかしら。もしかしたら、そんなものに匹敵するほど美味しさのあるものなんかなかったのかもしれないわね、何しろ椎の葉に盛る式の食物だったのだから。食べてしまいたい程というのがもし近代の表現なら、そこに又柳田国男のよろこびそうな要素があるわけね。ではのちほど。
十一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月十二日 第五十信
きのう、あんまり愉快そうにお笑いになったもんだからときどきあの空気が顔のまわりにかえって来て、何だかいい心持がします。時々ああいう風に笑いましょうよ、ね。心持いいわ。本当に、心持よい、日向のようにいい心持だわ。あなたも?
あなたの語彙の自在なのにはあきれるほどよ。しかも適切で。
きょうは、先ずいいおめざがあってホクホク。それに天気はいいし。勉強部屋をゆっくり自分で掃除して落付いて書きます。
本当に初冬らしくなりました。机の下にもうタドンをうずめた足あっためを使いはじめました。今年はどうやらタドンは足りそうよ。目白からもどっさりもちこみましたし。あすこの二階は足あっためだけで大体間に合っていましたが、ここではどうかしら。でもなかなか日はよくさしこんで、雨戸がぬくもっているのを閉めますから、階下よりずっといいのかもしれないわ。目白はいつも乾きすぎて上気せるようで苦しいほどでしたが、こちらにはそれがなくて、楽です。時々体によくないと感じる位だったのよ、家にはそれぞれのくせがあるものですね。
眼の本漸々! 私は眼は近眼だの乱視だので、去年みたいなさわぎもいたしますから、随分大切にしています。寧ろ恐縮しているわ。毎朝ホーサンのうすいのでちゃんと洗います。その点ではいい躾よ。眼が機能的な故障をもつということは重大な、人生的なことですね。
西村真琴と云って『大毎』の宣伝部か何かに今働いている人は、昔知っていて、理博です。自然科学の面白い話なんかきいたことがあったけれど、この人が眼底剥離とか云う病になってもう顕微鏡が見られなくなりました。そこで職業がかわり、暮しが変り、そのように職業のかわれる素質の俗的発展が著しくなってしまったらしい風です。眼は大切ね。
協力の本、うれしいと思います、パラパラと頁がめくられる。仰向きになっている手にとられて、何となしあちこちがよまれる。暫く伏せられていて、又とりあげられる。これは私にとっては感覚的です。よまれるというこんな感じを感じる作者は一寸類例なしであろうと思います。そして、読むということにも、いくらか似よったものがあるかもしれないと思ったりします。
「乱菊」の中の言葉、そうね、小店員の方がふさわしいわね。フランスの本のことは、かきかたがやっぱり靴をへだててというところなのです。私は、そのことを云いたかったからこそ、あれにふれたのよ、わざわざ。民族の経験を余り常識は大ざっぱに、現実からちがった理解しかしない癖がひどくなっているから、それであれにもふれたのに。残念だったわね。「思う」の余波がそこに及んでいるのです。あなたのお手紙のようにわかりやすく書けばよかったのだけれど。自分と結びついて使う言葉について、余り選びかたがやかましいと、やっぱり瓜だか爪だかはっきりしないところも出るのね。でもやむを得ないということの方が大きくて。
友情のことも、こんどすっかり自分でかく本(プランを)では、その点明瞭にしましょうね。
前のときも同じ感想を頂いて、今度は比較的気をつけて展開はしたのですが、土台が、性別を中心にして求められているので、そういう欠点が生じるのです。性別から出発することは違っていると云いつつも、ね。
「突堤」のはじまりは、あれを私が淀橋にいた間に書いたということから、作品としては不成功な書き出しがくっついたのです。全然客観的にみれば何にもあの小品にあの前は不用であると思います。でも、とってしまう気がしなかったの。あざのようなものね、云わば。
本当に、あとでくりかえしてよまれても味も匂もあせない本、そういう本をかいて行きたいものです。
それに私にはいろいろ自分への希望もあって、最も親密によんでくださるひとの精神と情緒との隅々まで、くまなく触れるような、そういう書きかたがしたいのです。或ときは頭が快くもまれて、そのうちにあるものを再現し、或ときはなだらかに情感が表現されて、それはとりも直さず全くそのようなリズムで再現されるべき情感を語っているという風に。大したのぞみでしょう? これをこそ大望とや呼ぶ、でしょう。その希望は何割みたされていることでしょうね。六分どおりだったら上成績よ。このデュエットにおいてよくまだ録音されないのは低音の部だということになるでしょう、いつも。いかが? 本当にこのことは知りたいと思います。忘れずお教え下さい。低音部の響は何割活かされているかということを。よくて?
国府津の海ではそと海らしく黒鯛なんかが釣れます。けれどもあすこはいつも沖ね。ほんの夏の一時期のようです、釣をやるのは。とても自家用なんかつらないわ。これは瀬戸内海の漁村と、ああいう太平洋に面したところとのちがいでしょうね。面白く思いました。自家用を釣ったりしてくらすところには、そういう日常のこまやかなところもあるわけでしょうから。
釣好きにもガソリンのないことは大打撃で、この頃は船頭が「手漕ぎなんか可笑しくてやれませんや」という習慣になってしまっているから、紀さんなんかもちっとも出られないらしい様子です。
北欧の気候について。雪よ雪よ北の雪よ、程よいときにどんどん降りつもれ。程よいときに、どしどしと雪崩れてとけよ。春の膝までの泥濘にとけよ。
隆治さんが、あなたの手紙なんかを、どんなに心にかみしめているかとよく思います。私の方へは一寸ここ暫く来ません、或はどこかに動いたのではないかとも思いますが。
多賀ちゃんからきょう手紙来。九日の午前二時とかに立って福岡へゆきました。病院の東門前の泉屋という旅舎です、母さんと。そして、やはり手術した方がいいと云われたそうです。旅舎にとまっているの気の毒だけれど、一寸知り人がないものだから、あの方面には。あなたもよくその辺は御存じとかいてありました、そうなわけね、野原のおじさんのときのことで。どの位入院しなければならないのか、出来たらいくらか送ってやりたいけれど、こちらは何しろ目下岩波『六法』、三笠の本がはかどらないでいるという有様で、笑止千万よ。そのうち何とか工夫をこらしましょう。それでも宿は親切とあるから、まあいくらかましでしょう。あの母斑は、やっぱりもっともっと大きくなる性質ですって。あとになると手術出来なくなると云ったそうです。きっとあなたの方へもたよりをよこしますでしょう。
光町の留守は冨美子とあの亡くなられた河村さんといた、従姉のひとというのがいるそうです。冨美子ももう四年生だから大丈夫ね、誰かがいさえすれば。
これから二人にそれぞれ手紙をかいてやりましょう。
多賀ちゃんも、世の中がこの位のうちにちゃんと安心出来るようにしておいた方がいいわ。当然もっともっとになるでしょうから。
うちでは、今までいた女中さんのうち一人かえり、今は派出さんともとからいるのと二人。それに書生さんが一人出来ました。うちのまわりを掃く人がこれで出来て、どうやら狸の穴のような落葉のしまつもつきそうです。どうしても一人男の手がいるのね、外まわりをやってくれる。
うちの連中も年をとったから、今度はうまくおけるでしょう。
S子さんがごく近々おめでたで、私が名づけ親にきめられました。うっかり忘れていて、きのうハガキ貰って些か狼狽よ。何という名がいいでしょうね。S子さんはあれでハイカラ好きで、名の面白さの分りかたが、旦那さんとはちがうでしょう。そういうことも考えなくては。一字が好きというが如しよ。
うちの風邪は大体退治が終りました。国男も一昨日から出勤。太郎も今日から御出勤。
十二月に入るといろいろの税があがるので、この頃は大変らしいわ、今のうちというので。呉服屋なんか。
魚の配給率が、家庭用70[#「70」は縦中横]%、業務用30[#「30」は縦中横]%となったところ、鯛、まぐろ、さわら等はみんな三十%の方へまわって、70[#「70」は縦中横]%の方はろくでもないいわし、いか、くじらの類。売上額は同じですって、70[#「70」は縦中横]%と30[#「30」は縦中横]%と。ひどいものね。早くおきて働けばいいんだ、とおっしゃった馬上の人の言葉も、現実にはこうやってあらわれて来るところに、一通り二通りならぬリアリティーあり。
このごろでは勉強部屋だけよそに持つということも大変むずかしくなりました。配給のことで。
宿屋なんかもやはり新しい税の何かにかかるのでしょう。汽車賃もあがります。バスだけ据おきよ。三等は大してあがらず、二等一等はグンとあがるらしい風です。月給は停止令ですが。だからこの頃では、大経営のその制限の明瞭でないところへと却って希望するひとも少
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