がった人らしいことね、写真で見ると。美しいと云っても弱々しく、つまらない美しさね、湧き出す力が全くないのだから女優として駄目だったのは当然です。小林一三のおめがねもあの位なのかと、人物評論的おもしろさを感じました。
叢文閣の本ね、きょうで完了よ。この人は、面白い本をかきますね、何というのかしら、大抵のひとは事実をその関係で示し語るだけだのに、この人はその関係のなかにしんからの理解をもっていて、展望の結果の面白さを自分でも十分感じていて、その感じが、本の云うに云えないニュアンスとなっているのね。つまり人間としての情熱が感じられるのね。この人の本は、最近どんなものが出ているでしょう、もしよめたら面白いでしょうね。そして、きっと面白いものをかいているでしょうと思われます。わかることを云えば一目瞭然的に明確ですからね、今日においては。
別の話ですが、今度翻訳権が統一的に処理されることになりました。今までのようにめいめいが勝手にその権利を原著者から貰うということではなくなるらしいことよ。
筑摩の本は決心して、やはり云っていらしたようなプランでやります。古典の作品から現代の作品をひろい範囲で対象として行って見るわ。絶えずいろいろに考えて見ますが、どうしたって、そうでもしなければ書けない本なのですものね。人生論的なものを書くなんてその形では、いかにも書く気がしないし。どこまでも文学をはなれず、古典のよみかたもおのずから会得しつつ作者とその時代もわかり、そこからひろくふえんされたものの感じかたに導かれるというのもわるくないでしょう。もうそういうやりかたしかないときめたの。きのうの晩。それできょうはのこりの30[#「30」は縦中横]頁を終ってそっちの仕事に着手いたします。
歴史的な精神発展の順がどのように辿れるのか今のところ見当がつきませんけれども、でもたとえば、「ジャン・クリストフ」の中ではクリストフとオリーノ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ィエの友情の面でとりあげてゆくという風にして、それと何か女の友情の問題のある小説とを並べてふれて、友情の内容のぎんみも出来れば幸だと思います。そういう風にやって見たいの、同じ問題が女の生活ではどう現れるかというところも見落さず。そういう立体的な背と腹とのあるもの、そしてその両面のいきさつも鮮かに示されているもの、そういう本なら、やはり独自な価値をもちましょう。文学という面で云えば、少し大きく云えば世界文学評みたいなものになるわけだから、そう思うと私はまだまだよみ足りない感がします。
英雄崇拝ということについて、スタンダールの小説を見のがすことは出来ないわ。ところで私はスタンダールをどうマスターしているでしょうか。大した自信がありようもないわけでね。しかしこういう方法しかないときまれば私はもう腰をすえてかかります。又ケイオーの桑原さんから眼の疲れを守る薬をもらって、せっせとやるわ。この機会に、これまでちりぢりばらばらだった世界文学に、自分なりの一貫した整理が出来れば仕合わせですから。人生への理解のひろさ、ふかさという味だけでなく、人生と文学との見かたが、文学的にやはり何かであるという風にやりたいことね。
九月はじめのお手紙で、マンネリスムのポーズに陥ることについての戒心がかかれていて、あれは全くのことですが、でも、自分の仕事として本当に自分がアペタイト感じる迄つきつめて行って見ると、とどのつまりはやはり何かの点で、いくらかでも勉強の重ねられたものでなければ満足出来ないから、そこは面白いものね。同時にユリが、器用人でないことの有難さよ。先生[#「先生」に傍点]になることに皮肉を感じているありがたさよ、ね。
白揚社と万里閣から、女の生活についての本の契約があって、それは、こちらよりも自分で早く目あてがつきます。一つの方には一寸面白いプランあり、これも勉強がいるのよ。それはいずれまた。白揚社の方の本では、益軒の「女大学」、それから女のひとの書いた庭訓と当時の文学にあつかわれている女と川柳などの女の生活と、その関係を見きわめながら明治へそれがどう流れこんで来て、今日どう変化しているか、そういう点を見たいの。(つい書いてしまったわね、いずれ又なんかと云いながら)さし当りこの三つを目前にひかえてフーフーの態です。こういう種類の本三つもかけば、小説が書きたいわねえ。実に書きたいわねえ。
それでも白揚へのプランは、もしちゃんと出来れば、今出来かかっている『婦人と文学』の前期、明治以前をつなぐものですから価値があるわ。徳川時代の女に何故歌よみと俳人はあっても、小説家が出なかったかということなど、考えるべき点ね、女性の教養と当時の文学――小説の考えられかたの点。馬琴と春水との出現が語っているような分裂、その間に所謂文のかける女は皆つまりは馬琴側で、しかしそれでは女にはかけなかったという矛盾。十八世紀にフランスではラファイエット夫人が立派な小説かいているのにね。そして、これは、藤原時代に女が小説をかけたことの、その可能のうちに潜んでいた弱さの結果を語るものとしてあらわれているのですから。
おやおやもう八枚目ね。では又ね、あした。
十月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月五日 第四十二信
きょうはむし暑いこと。セルを着ていて汗ばみます。そちらも? 太郎は急にとうさんとかあさんとにはさまれて、鉄道博物館を見に出かけました。
お手紙、やっと着。ありがとう。
あの間違いのこと、そのケタちがいの理由がわかりました。労働年鑑や何かで有職婦人の総数をしらべて、それと間違ったわけでした。有職と云えば広汎で、あの数が出ているのですけれど、勿論働いている女のひとの数はその一部ですからずっとちがいます。有職には待合のおかみでも入るわけですから、度々注意して下すってありがとうございました。私はときどきこういう間違いをやるのね。そしてそれはやはり様々の原因があることで威張れないと思います。よく気をつけましょう。
本のこと。おっしゃるとおりと思っているのですけれど、はかどらないことよ。東京市もところによっては指定区域というものが出来る(出来ている様子です)そこでは防火用の設備もいろいろときまりがあって、小石川の高田老松の辺や目白の方もそういう方らしい様子です、戸山ヶ原その他があるからでしょう。こちらとその条件が大分ちがうようです。各戸にポンプや何かそなえるというのよ、指定のところは。そしてバケツでも一定数以下しか買えないところは市で配給するということです。その点ではこちらはよかったと思います。
輝ちゃんの毛糸は、お話しいたしましたとおり。一ポンド二十円というのは毛ならきまったねでしょう、上海あたりからのものもその値段だそうよ。
巖松堂の六法、承知いたしました。鴎外の歴史もの私はみんな(と云っても、後期のものは別ですが)文庫でみたのよ。もし全集がうまく手に入らないようだったら、文庫でも我慢して下さるでしょう、こまこましてうるさいにはちがいないけれど。全集は岩波からホンヤクの部と創作の部と二種並行にして出して居たと思います。鴎外なんかやはりきんべんな人だったのね。ドイツ語が自由だったにしろ。
私もどうやらやっと仕事に向って来たようです。でも辛いのよ、この間叢文閣の本、実に面白くて、丁度そちらへの途中、新書の「アラビアのローレンス」をよんでいて、ローレンスの悲劇が何と一九一八年をめぐる世界的な意味をもつかと思って、興味おくあたわずです。ストレイチーという人(エリザベスなんか書いている)がもし真に歴史小説家ならば、たり得るならば、「アラビアのローレンス」こそとりあげるべきです。でもストレイチーには書けないでしょう、ストレイチーは個人の心理のニュアンスを追ってものを分析するから。ローレンスの悲劇は分らないわ。歴史小説のテーマはつまりはこういうモメントでつかまれなくてはうそです。あの本をよみながら殆ど亢奮を覚えました。「スエズ」その他引つづきよみたいものが出て来て、ほんとにあの本はうれしうらめし、よ。そして又一方には、こういう本の面白さ、現実性に対して、同等の熱量をもつ小説というものが実に不足を感じます。文学の立ちおくれということは、単純でない理由をもっているから、或意味でおくれているのが本当ながら、しかし本質が非常に弱ったものの上におかれているとき、文学のおくれは実にひどいことねえ。何ものをも描き出していないという位の印象で。私は面白い本をよむにつけ、同じように面白い小説がよみたいわ。波頭について云えば、勿論小説の書く現実はずっとおそくうちよせた波についてかいているのが必然だが、少くともその波の描きかたの深さ、正確さ、規模に於て、ね。本当にそういう小説がほしいわねえ。何てほしいでしょう。自分だけとしての感情で云えば、古典が実に古典化してしまった感じです。今私は自分のためばかりに古い小説をよみたいと思いません。今日の歴史性刻々の古典がほしいわ。
あの支那についての本の著者が生きていることはおめでたいことです。こんなものね。いろんな希望がいろんな形で話されるのが分って、面白うございます。
朝おきについて、皆で笑ってしまったわ、ホーラね、こっちへ来ればきっと出ると思った、と云って。大して悪い成績でもありません。けれども目白のようにはいかないときもあります。北の四畳へ籠城ときめてからはピアノも大して邪魔にならず、昼間落付くからもう安全になりました。なかなかいろいろよ。一日中殆どピアノがきこえるのですからね。あっちこっち工夫して、つまるところ一番せまくるしい、寒いところへ昼間はとじこもりにきめました。こちらだと左側から平らな光線が来て目も楽なの。南向でも大きい木や何かが邪魔してくらくて。夜は南の方へ引越すの。
冬の詩集の話、本当にそうでしょう? アイスランドのことは面白いと思います。アイスランドにそんな暖いお湯のあふれるところがあるなんて、何となし思い及ばないことね。そして外面の事情のつめたさだけ零下〇度ではかっているというのは何と興味があるでしょう。自然とは豊富なものね。すべて自然なもの、自然さをけがされていないものは、同じようなゆたかさをもっているのね。アイスランドの暮しはアンデルセン風のものがこもってさえいるようではありませんか。
専門学校以上は十二月で卒業になります。一学期くりあげの卒業です。やがて一ヵ年短縮になる由。文部省はいろいろ賛成しかねる点を見ているのだそうですが、青年団に学生が多い方がいいという点だそうです。七月で外国雑誌は入らなくなったし、大変なことね。学問の水準を保つ必要は、一面他の刻下の必要にも通じているわけなのでしょうが、両立しかねるものと見えるのね。先生も生徒も急にきまったことで急にせわしない思いをしているようです。女のひとも同様ね。美校の卒業生も中学の先生になるか工場へゆくかという風だそうです。
この妙な紙もこれでおしまいよ。なかを見ないでいそいで買ったらこんな字入り。こんなのを見ると、子供のとき父の事務所用のタイプでいろいろ打って(印刷したのね、考えると)ある紙が珍しくて、それをもち出してつかって、子供が使うと可笑しいと云われてよく意味が分らなかったことを思い出します。そしたら、この間、東北へ行っている娘さんが、大学のいろいろのことつまらながっているのに、大学と押し出した紙つかって書いているのを見て何となく微笑しました。あのひともやっぱりそういう紙を偶然手に入れたのかしら。
夕方、寿江子へのおはがき。道後のことが書いてあって又行ってみたくなったわ。この夏、海のきらめくのを眺めながら、室積で、すぐ道後に行って見たくなりましたっけが。電車で行くんでしょう?「坊っちゃん」のなかにも、そこいら辺が出ているわね。太郎を今に虹ヶ浜へつれて行って泳ぎを教えようというのが目下のところ私の憧れよ。太郎もたのしみにしています。
冨美子が学校にいる間だと、あの子が上手
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