人を理解する限界としての輪の論ね、あすこからかかれているものです。そして何かやっぱりあの輪論が私におこさせた疑問が一層深められます。あるがままのその人を理解する、うけいれるということが一般性で云われているから。あらゆる人物間の事件が、その肯定のために配置されているから。このことは、バックにとって芸術の一つのスランプへの道を暗示するいくらかこわい徴候ですが、バックはそれを心づいているでしょうか。文学の世界の交通ももっと自由だと、たとえば『エーシア』だの『ネイション』だのに日本の一人の女の作家の批評ものって、バックはやはり満更得るところがなくもないのでしょうのにね。何と互に損をしていることでしょう。
 ケーテ・コルヴィッツの插画のことでアトリエ社の人が来ての話に、百五十人ほどの人から、十人、明治画壇の物故した記憶すべき画家をあげて貰ったのに、一人も婦人画家は名をあげられていなかったそうです。画は大変おくれているのね、その理由は何でしょう、文学は苦しんでいる若い女の心が直接ほとばしって表現し得るのに、画は従来、そういう表現としてみられている伝統がないからなのね。純文学というより以上に純粋絵画
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