心配さえしなければ私は生きていられますよ」と云って、おじいさんをおどかすので、おじいさんも茅ヶ崎へかえれとは云わないのですって。
 面白いでしょう? 八十と七十のこのじいさんばあさんの物語は。そして私たちは七十のおばあさんの生活というものに、やはり女の働き盛りの生活というものが、その間にはなかなか歌一つでさえ満足にはやらせるひまがなかったのだということを考えさせられました。七十まで生き、すこし病人になって、そしてそうやって却って楽しい生活が夫婦にあるなんて、面白いけれど、でもねえ。やっぱり、でもっていうところがあるわ。
 咲枝なんか、何か大して関心ももたずきいて笑っていたけれど、咲枝にとったってひとごとではないと思われます。
 うちでは、咲枝がこうしているからこそみんなこうやって暮してゆけているのだけれど、なかなかよ、見ていると。
 旦那様というものは大切にされるのねえ、どこでも。
 勿論それは私だって決して決してで、それは御本人がよく御存知と思いますけれども、旦那様の非条理がいくらか通りすぎるわね、どこのうちでも。家庭ではそこがおそろしいところね、うちの中だけのことを云えばどんな風変りも通用するのだもの。ちゃんと社会的活動をしない、うちの旦那という人々がみんなどこか偏屈だったり、変ったりしているのは尤もね。イギリスの貴族のひどい偏屈変りものが十九世紀の小説にはよく出て来ていますが、それは人間性の浪費でああいうことになってしまうのね。
 夕方や朝、丸の内に津浪のようにさしよせる灰色の人浪を見ると、余りただ一色の人間群で悲しいし。本当に人間らしい姿と足どりとで生きるということがそのようにむずかしいということが抑※[#二の字点、1−2−22]の問題であるわけです。
 きょうはね、何ということなし、あなたのまわりにいるのよ。そして、ちょいと用事にいなくなって、又来て、何かと話しするの。
 私たち十分自分たちの時間があったとして、あなたは何か仕事以外の道楽をおもちになるたちでしょうか、たとえばゴを打つでしょうか、ショーギをおさしなさるでしょうか。この頃のゴの流行は相当のものらしい様子です。ゴ、茶、禅、お花、習字、そっちの方角ね。この間哲学をやるひとがやっぱりゴをやっていて、ゴのつき合いは自由自在にひろがれるからいいと云っていたわ。わかりますけれどもね、私は、でもという感じがするの。読むべきものするべき勉強がうんとあって、それをしないで、ゴうっていられるというのはどうも少し妙ね。今時、変にうごきまわるのはろくでなしというのは分るが、だってねえ、うごかないということと、ゴをうつということとはすぐ結びついてそれで終りではないわけでしょうし。
 私の道楽はなさすぎるわねえ。音楽だってせいぜい新響の定期をきくぐらいのところですし。二人とも案外|芸《ゲイ》なしなのかもしれないことね。のんきな一日は、気持のいいところへとぐろをまいて本をよんでいて、たんのうしているというのが落ちかもしれないわね。
 国府津の長椅子式で。あのときの青竹色の表紙の本は何でしたっけ、細田民樹か何かだったかしら。一日よんでいらしたわね。それでちっとも退屈ではなかったことね。ああいう退屈でない時間の流れかた。ゆったりとした水が流れるのを知らず流れているようなああいう含蓄ゆたかな時の流れの味。私たちの気質は一日をせかせかと小さく区切って小まめにあれやったり、これやったりして、夕方になるとやれ一日すんだという型ではないらしいことね。夜からひるへいつか夜となり、という調子らしいわね。私たちはなかなか詩人なのですもの。
 詩人と云えば、この頃あなたの読んでいらっしゃるのはどういう詩でしょうか。
 この間うちのような秋日和には、ゆたかな海の潮のみちひのうたや、暖くて芳ばしい野草のうたやがなつかしくて、裏表紙の深紅の本を折々くりひろげました。おぼえていらっしゃるかしら、あのなかに、「ああせめて私の眼がたんのうするまで」という短章があるのよ。一本の実に美しい樹の梢があるのよ。幹の雄々しい線と云い、梢の見事なしげり工合と云い、それは空にひひるばかり。一人の旅人はその樹の美にうたれ心をひかれて、その幹によって飽かず眺め、遂に手をのばしてその樹を撫でるのですが、その山地は霧が多くてね、もっともっと見たいのに忽ち霧が湧き出て梢をかくしてしまうのです。旅人は去りかねています。そして思わず心の願いをうたにうたうの。ああせめて、私の眼がたんのうするまで、と。
 それからこんな対話風のソネットがあるわ。
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あら、あなたは、どうしてそんなにいそいで行こうとなさるのでしょう。まだ日は高いわ。
私たちの影法師は、さっきから、まだ、
ほんのちょっと、
ホラ、あの樹の根元から少し動いたばかりな
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