す。一日の午後から二日休みのつづく日に、もしかしたら国府津へ出かけます。この間の休日は行かなかったの。国男さんと太郎とだけ行きました。もし今度も私が行かなければ、咲枝が赤坊つれてゆくからたのむものはたのみましょう。一寸行ってみたいところもあるわ。一昨年の夏行ったきりでしたから。この間行ったとき国男さんが、きれいに真青な橙の大きいのをもって来ました。初めて、うちの樹になったのですって。
 この間原智恵子のピアノをききました。久しぶりに日本へかえって来ての演奏でしたが、余りひどくなっているのでびっくりしました。もとは、そのいろんな外向的な素質が、近代的な扮装につつまれていて、謂わば理性的、つめたい情熱とでもいうような型に装われていたものが、この間は、シューマンのコンチェルトを弾いたのだけれど、すっかり崩れて、何にも作品の精神をつかもうとしていないで、一つの要領、大衆作家のきかせどころのようなもので弾いていて、井上園子とは、もうどこかで決定的にちがってしまったことを感じました。映画界の人と結婚して、フランスへ行って、かえって来て、その二三年の間に、低いすれからした雰囲気の女王気取りで暮していることが、服装から、身ごなしから、音楽に溢れて表われていました。例によって、有島生馬が、老いたる瀟洒さで出現してきいていたが、彼はあれを何と判断したでしょう。下手とちがうのよ。いやな気がするのよ。そして、女だということは一層ものを哀れにして、ごく胸を低くカットしたイヴニングで、十九世紀の悪趣味よろしく胸の二つのもりあがりをのぞかせたりして。そして、あんなひどくひくの。
 本当に音楽がすきというのではないのね。所謂世界的舞台でスポイルされたために、現代の混乱で、そういう道具立てがなくなると、妙に張りがなくなって、日本の本当のレベルがわからないもんだから、がったりひどくなってしまうのでしょう。井上園子だって金持すぎて名流すぎて、彼女の音楽はいつも社交性と手をつらねている危険がありますが、音楽は勉強しなければならないもの、というところは分っているようです。諏訪根自子はベルリンだそうです。音楽に国境がないばかりか、ベルリンではさぞ自由にやっていられるのでしょう。この若い女性もそういうことでは抽象的音楽天才ですから、当然。
 外国と云えば、これからは、外国郵便は、発信人の住所氏名を明記して、切手をはらず、郵便局へもってゆくのですって。それからどういう手順があるのでしょうか。エハガキも二重封筒もいけなくなるのだそうです。
 国内はいいのよ。
 只今のところ、演習まだ大したことなし。八百やが来て夕方から空襲があります由。今年は、警防団その他はなかなか具体的にやっている様子ですが、町内は割合気がしずかですね。これは面白い心理だと思います。もうお祭りさわぎとして、世話やきずきの小母さんの活躍舞台より以上の実感があって、却ってワイワイしなくなっているというところもあるのでしょう。
 林町の裏から動坂のひろい通りへ出る迄の一帯は本郷区内の危険地区の一つですって。何しろ、あの裏通りは御存じのとおりですから手押ポンプしか入らないからだそうです。従って、うちも裏から火が出て、冬のことではあり北西の風でもあれば、ことは到って簡単というわけでしょう。そういうときになれば、私は体と手帖とエンピツと封緘さえあればいいと思って居ります。
 では火曜日にね。眼をお大事に。泉子からよろしく。

 ね、ふっと原さんが泉子という名だったと思いました。原さんかんちがいしたら可笑しいわ、ねえ。イヅミ子に可哀そうだし、ね。

 十一月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(青木達彌筆「薄」の絵はがき)〕

 きょうは(一日)天気がはっきりしないので国府津で一年も閉めこまれたままの布団を干せそうもなくて大弱りよ。それでも出かけるのでしょう。出かけてしまえば又それで気がかわるのでしょうが。
 眼の本いかがなりましたか?
 この間本やで計らずオーエンの『自叙伝』というものを見つけました。珍しいと思いましたが、知っている人にとっては格別興味も少い本なのかしら? あなたはいかが? ノートや本やをもって出かけるのよ。それからお米も。タクアンも。

 十一月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 神奈川県国府津前羽村前川より(封書)〕

 十一月三日
 今度は何しろ同勢が同勢なので、おっかさん役おかみさん役兼任のため、なかなか忙しい思いをしました。
 一日の午後、太郎が学校をひけてかえって来るとすぐ出かけ一時四十分の小田原ゆきをめがけて東京駅へ行ったところ、列がずーっとむこうの端れで、最後尾の車に、しかも立ちづめで二の宮迄よ。どこかの中学生の練成道場行がのっていて、お米を忘れたとさわいでいる四年生もあり、という工合。太郎
前へ 次へ
全118ページ中108ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング