ないという、その点を。
ゲーテが「ウェルテル」をかいて、それからワイマールのおあいてになってから、そのような方向への戸口をひらかれて、段々と「ファウスト」の第二部にある貴族的なギリシアへの復帰や有用人的見地へひろがって行った過程も面白うございました。どうして第一部と第二部とあんなにもちがうかとずっと思っていたもんだから。恋愛小説というと「ウェルテル」と云うでしょう? 何も知らずに。恋愛小説は、前進して理解されなければならないと思います。そんなことも考えているのよ。
これは別の話ですが、作家の生活というものの不健全さが、今日、いろいろな形で文学を歪める作用をしている中に男らしさの問題があると思いはじめました。
世間の普通の人とはちがった日暮しをして来た作家は、男でも、男らしさの感覚から萎靡《いび》させられているのね。だもんだから戦場でめぐり合う兵士たちの男らしさに男でさえ特殊な印象をうけ、のっぴきならぬところに生きている人間の美を改めて感じ、それでとにかくあすこでは、と云うのね。私はおどろきをもってききます。女の作家なんかへなへなにかこまれていて、そういう人たちを見て男をはっきり感じるのね。稲ちゃんの奉公旅行からかえっての話で、考えました。そこには原形にかえされた男らしさや女らしさが見られるのでしょうか。
芸術の仕事をする男が男らしくないというのは全く笑止なことね。これは北條民雄の癩とのたたかいをかいた文学について川端が生命のぎりぎりの感覚として称讚したときも、私の感じたことでした。
この人たちは、生きてゆく、丈夫で生きてゆく日々がいかに充実し緊張したものであるかを感じないぐらいのびているのだナと。そういう生命の緊張、生命の意味への絶えざる自覚なしに生きていると、アブノーマルな条件でなければ生命感を感じないセンチメンタリズムが出来る。
文学は何と強い高い美しいものでしょう、でもその裾には何というごみもひきずっているでしょう。
健全に行動する機会がないと、只、行動そのものに妙な評価をはじめもするのですね。
そう云えば、こんどの本には行動と思索とのいきさつも扱って見るつもりです、どんな作品がいいか分らないがさし当りは「生活の探求」のあの井戸直しでも。
行動の讚美はイタリーのマリネッティのように、未来派からローマ進軍へとうつりゆきますから。私たちの思索と行動とが自立した統一をもつために、今日はどういう道程を歩いているかということについて、思索力そのものが、運動神経を丈夫にしてゆくことの価値をはっきりさせたいわね。
物質のスピード行動力の方が精神を圧倒したところに未来派の速力への陶酔があるのだから。そんなことも面白いでしょう? 私たちはさかさにおかれてもちゃんとものの考えられる習練がいります、ああこんなにお喋りしてしまった。では火曜日ね。
十月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(「ロシヤ寺院・哈爾浜《ハルビン》」の写真絵はがき)〕
眼の本と文学の扉をお送りいたします。きょうは又曇りましたね。けさ早く南江堂へ出かけたら、どこもかしこも防護団の制服をつけた人だらけでした。帝大の鉄柵は、鉄回収のために木の柵になって、何となし牧場のようです。正門入口の門扉も木の柵ですから。私は昨夜思いついて、いつかあなたの着ていらした毛糸の(糸の交った方)ジャケツを直して、いざというとき着ることにしました。いい思いつきでしょう? 誰にきいても私たちのまわりでは、本はあきらめています、手がないという形らしいようです。
十月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月二十三日 第四十六信
きょうはからりとした天気です。二階の手摺りのところには夜具をいっぱいほしてあります。昨夜は寒かったことね、はじめて室へ火鉢をすこし入れましたが、いよいよもって心細いことは、この火鉢で冬の夜仕事は出来るだろうかということです。
ところで、きょうは可笑しい日です。空気の工合か何か、うちじゅうの女のひとたちは顔が乾いて、何だかくすぐったくてピリつくようで閉口というの。私は落付けなくて、顔を又洗ってオリヴ油つけて、それでもまだ駄目よ。変にかゆいようなの。可笑しなこともあるものです。
(あらあら大変。寿江子がブーブーやり出したら、すっかり開けてあるものだからまるでとなりでやられるようです。)
南江堂の本いかがでしたろう。あなたがおっしゃっていたことを一寸思い出してそのあたりひらいてみたら、ほほうそういうものかしらと思うところがありましたけれども。片方の疾患が平静になったとき云々というところ。そういうものなのでしょうか。ヴィタミンはあがっているのでしょう? ずっと。AB? Dが入ったのがいいらしいけれども。そういうのはない
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