いるので、とってくれと云ったら、紫の上っぱりを着た女店員曰く「お手間がとれるんですけれど」「何日ぐらいでしょう」「サア……十日もかかりますでしょう」十日では待てっこないわ。アルスどこでしょう、そこをきいて、同じ通りのずっと九段よりなのね、そこへ出かけて買いました。この頃はすべて配給会社を通じてやって、もとのように出版元へいきなり本が行かないことになって手間がかかる上に、どういうのかしら本やの店員が別なもの、何かデパートの廉売品売場の売子のような荒っぽい気風になって来ているのはびっくりいたします。本へのやさしい心持や、本やで働いているという心持のどこかにあったちがいはなくなって来ているのね。この一年の間にこう変ったとおどろきます。
あの『文学史』、残念ながら訳がよくないようです。訳序第一行「この書はユダヤ人誰々の」という調子です。全体が一寸必要に迫られないと読みにくい訳文です、ガサガサと荒くて。ああいう文章の味を、落付いた日本語にうつせるためには、本当のものわかりよさがいるというわけなのでしょう。推論のパリパリしたところを文調[#「文調」に「ママ」の注記]で反射しているようで。でも文化史としての概括や作家論は本当に面白そうです、ありがとう。先に教えて下すったときね、私は何だか小説と思いちがいしていました。それとも「金が書く」というのかと思ったらそれとも別のものでした。なかなか語学の力のいりそうな文章ですから、あれをおよみになったというのはえらいことね。達ちゃんと夏休みに暮していらしたという、そのときのこと?
今度はともかく世界文学史を一貫してよんで、いろいろ大変面白いし、わかるし、十九世紀初頭からそれ以前の古いものについてのこともいくらか分るようになりました。しかし大戦後のいい文学史というのはないのねえ。この『新文学史』の終りにしろアナトール・フランスです。尤もその時代に入れば直接作品から判断のもてるものが殖えているわけですが。
ノートをとってよんでいると、二つばかり別の副産物が得られて大変面白く、この頃は随分長い間机について居ります。ピアノにも追々馴れて、神経を大して使わなくなりました。
「アラビアのロレンス」はそれは仰言るとおりよ、私があの叢文閣のとつづけて興味を感じた理由は、ロレンスという一人の人間が、自分の悲劇の真の理由を知らず、自分としてはテムペラメントにひきまわされつつ、しかも今日の私たちから見れば、ダットさんが示しているような時代のすき間に落ちこんだ典型であるというところです。
あの宿題を勢こんで片づけたことから段々仕事にはまりこんだ気になれて来てよかったと思います。ブランデスを見たらブランデスなんかはバイロンを自然主義作家の中に入れているのね。しかし、『発達史』の著者が見ているようにロマンティシズムの一つのタイプだというのが妥当でしょう。ハイネが三つの時代的要因の間に動揺したいいきさつもよくわかって面白うございます。バルザックからゾラへのうつりゆきも面白いし、フランスの十八世紀後半から十九世紀の世相というものは実に大したものだったのですね。ディケンズの背景をなすイギリスの様子もよくわかります。そして改めて感服し、おどろき、深い感想をもったことは、日本の文学が十一世紀頃大した進歩をしているけれども、十六世紀以後、ルネサンス後の世界が大膨張をとげて近代文学を生んでゆく時になると、もう関ヶ原の戦いでやがて十七世紀は鎖国令を出している点です。文芸復興の初頭十五世紀、日本には足利義満がいて、能楽が発展していて、平家物語の出来た十三世紀にダンテは「コメディア」をかいているというようなこと。徳川三百年というけれど、もっとさかのぼりますね。沁々そう思いました。十二世紀に入って、比叡山の山僧があばれはじめたとき、それは何かであったと思われます。哲学年表とてらし合わせて見て暫く沈吟したというような塩梅です。
今日世界の文学史をよむことはためになります。大きい無言の訓戒にみちてもいます、作家の消長は歴史の頁の上には、その人が強弁しがたき現実の跡を示してむき出されているのですもの。この勉強は、ですからどうも一つの本にふくまれる必要以上のみのりとなりそうです。ハイネを好きになれない理由が自分に納得されたりもして。
今度は無理ですが、いつか又プランを立ててせめて日本に訳されている十八世紀ごろの古典ディドロなんか、我慢してよんで見て置こうと思います。モリエールなんかもっともっと知られるべきです。ヴォルテールなんかがアカデミックな人たちの間に訳されているのに。芝居の方のひとで、そういう勉強や整理をやる人が一人ぐらいあってもいいのでしょうのにね。ナポレオンが自分の舞台装置として古典(ローマ)を飾ってアンピールという様式を服飾(女の)や
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