ました。
さて私の方は、昨日、勇気を奮ってうらの林さんのおばあさんに話をいたしました。それは大した気合を自分にかけて出馬したのよ。けさ返事があって、あとに佐藤さんが入ることを承諾いたしました。五十円になります。それで可能であったわけです。一大事業をやって、ほっとして、今おあいさんに夜具の袋を買いにやったところです。佐藤さんが来るなら、いろいろあっちがちゃんとしないのにすっかり持ち出さなくたっていいし、こっちへよれるしいろいろと万事気が楽です。思い切ってまあよかったと思って居ります。全くあなたのおっしゃるとおり仕事部屋をよそに持ったっていいのだし、或る意味では、これ迄何年間か知らず知らず肩へ力を入れて暮して来ているのがやすまるかもしれません。少くとも島田へ呑気に行けるだけも仕合わせかもしれないわね。出ることを考えなければ行く気にならぬ、というところ何卒何卒お察し下さい。真面目な話よ、これは。まあ生活には様々の屈伸曲節があっていいのでしょう。たとえばKたちの生活を、何とかしてもう少しましにしてやりたいと気をもんだって、これ迄何ともなりはしなかったのだから、自分で自分として生活して行って、そこに一つの生活の流れが通っているものだから、おのずから何かうち全体が変化して来るというのでいいのでしょう。そういう意味からも謙遜に熱心に生活すればいいのだしね。私はよくよくああいうところでの生活術というものを考えました。本気で今度は考えて、追随もしないし、おせっかいもしないし、ちゃんとユリちゃんらしき世界を建ててゆく決心をいたしました。批評だけに終る批評はしないわ、もう。やってゆくだけよ。つまりあの家に欠けているのはそういう力なのですから。そういう点で、私はこれ迄幾度か林町へちょいちょい暮しましたが、今度は別の私としての段階で生活をはじめるわけです。この点もわかって下さるでしょう? 私にはどうしたって生々として皮膚にじかにふれて来る生活の風がいるのだから、今になってもあの空気を考えると涙が出るわ。苦しくなったら机と夜具をもって出かけるわ、ね。わかっているのです、息がつまって来て、バタつくのが。だから私がアプアプしはじめて、何とかうごきたがるときは、どうかそのようにさせて下さい、これは今からあらかじめ諒解ずみということにしておいて頂きます。あれこれの条をわかっておいていただくと、こまかいことについてごたごた喋らないでも話の意味がわかりますから。そのようにして開始したいの。
今ここにきこえている省線の遠い音だの、いかにも秋らしい西日の光だの、そういうものを一つ一つ鮮やかな感情で感じます。
生活っていうものは不思議なものね。本質的なものでないものでもそれが自分の生活として身について何年か経ると、そこからはなれるのに、丁度、植木をぬくとき細い根の切れて来るプリプリプッというような音がするのね。
今度は生活というものについてなかなかいい経験をしたと思います。[#図2、手書き右下がりの三角]こういう形なら形で毎日の生活が運ばれて来ていると、その中のどの部分に大事なものがあるのか、ほかの形のついている部分はどういうものかということを吟味するのは、やはり根本的な問題がおこらないと、だらだらに、しかも一生懸命骨を折って形を守って暮すことになったりもするのね。
私は指一本さされない暮し、というものにも地獄の口があいているのをよくよく発見して、面白いわ。それからいろいろな人とのいきさつにしろ私は、これまで何でもして貰うよりして上げる側にばかりいつしか立って来て、そういうならわし、自分の可能性から、家のものにきがねして友達を外へつれ出して夕飯でも一緒にたべるというそういう気分は余り味っていないわけね。ごく若いときから、自分の努力で、こう進もうという方へそのように進んで来たものが、或る時期に、その裏うちとなるいろいろの生活のニュアンスを経験するのは、決してわるいことではないと思えます。一本道に益※[#二の字点、1−2−22]複雑な景観が加り変化が含蓄されるわけで、つまりは柔軟でつよい豊かさを増すことともなってね。悪くないぞとも思っているの。一つずつちがった経験を重ねて、段々自分を甘やかさないで生きる法を学び、人生で大切なものを大切としてゆくようになるということは考えれば愉しいことだわね。生活してゆく人間らしい適応性が、そのようにしてましてゆくということはねうちがあります。生活において、非常に運動神経が鍛えられていて、どんな角度が生じても自身としての均衡の破られない力がつくことは、これからの世界が私たちに求めている資質の一つね。
ざっとこういうようなわけなの。ポツポツと月の中に荷物を動かします。チクマもまさか、合の手にこんな引越しがはさまっていようとは思って居り
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