の行列歩調のきまっているものについては。一つ義務というものについて考えてみたって、私が本をなかなかかき出せないわけが分って下されるでしょう? イギリス人は紳士道の一つとしてデュティー・ファーストと教えます。しかしデュティとは何でしょう? インドに向って船を駆ってゆくそれはデュティであったのです。だからキプリングがああいう愚劣な女王の旗の下になんていう動物物語を「ジャングル・ブック」のおしまいに加えているのでしょう。
本当にこの紙はひどくてすみません。伊東やへ行くと、先つかっていたようなタイプライターの紙があるかもしれないのだけれど、あっちへつい足を向けないものだから。原稿紙だって今時はなかなか自家用をこしらえるなんてわけには行かないのよ。私は自分の原稿紙だの用箋だのをつくらせるのは寧ろ滑稽な感じがするのよ、何々用箋だなんて。そんな紙に手紙かいて、一層滑稽なことは自分の名を印刷した封筒に入れてね。
原稿紙もあたり前に何のしるしのないものをこしらえさせてはいたのです、用箋の紙はおそらくないでしょうね。あれば日本紙でペンでかけるのなんかでもまあ用に足りますね。ボロに還元するに時間がいくらかもつでしょう。
ヘミングウェイの下巻、古で見つけました。上巻よりも何というかしらテーマの集注した部分です。二十世紀の初めから、たとえばトルストイに「ハジ・ムラート」があるでしょう、そのほかどっさりコーカサスをかいたものがあります。それからファデェーエフの「ウデゲからの最後のもの」、それからこの作品の中のソルド。ここでは又農民というものも歴史の水平線の上にあらわれて来て「チャパーエフ」、「壊滅」そのほか。こういう文学の筋を辿ると面白いことねえ。アメリカの文学の中でだってやはり随分面白いのです。一九二九年以後のアメリカの文学は、真面目に対手にされなければならないものであると痛感いたします。
榊山潤というような作家は果して正気でしょうか、アメリカ映画その他外国映画の輸入が全くなくなることについての意見として、ドイツやフランスの映画がなくなるのはおしいがアメリカの下らない映画がなくなるのは何より結構だ、と。しかしパストゥールを映画化したのはどこでしょう。昨今大評判のエールリッヒを制作したのはワーナーですが、ワーナーとはどこの会社でしょう。エールリッヒになって科学者の精神と人間的威厳で私たちを感動させ六〇六号が何故六〇六号という名をもっているかを知らせた主役のロビンソンはアメリカの俳優です。ロスチャイルドの傑作、その他。妙なことをいう人があるものね。アメリカが気にくわんというのとは芸術家だったら別箇にわかりそうなものだのにねえ。せかついた世の中になると、めいめいが自分の専門の魂を自分で見失ってしまうようですね。どしどしといろんな専門の分野で専門から滑り落ちてゆく人がダンテ的姿で見られるという次第でしょう。
ホグベンの「百万人の数学」が紹介されたとき日本で忽ち『百万人の数学』という本をかいて、それが悪い本だと云って石原純や小倉金之助におこられた竹内時男という工業大学教授があってね、その人が、この頃は「科学のこころ」というようなものが出て、その程度でいいものだとでも思ったと見えて「人工ラジウム」というものを特許局に請願して許可になりました。医療用として。ところがそれに対して、囂々《ごうごう》たる批難が学界におこって、日頃はあんなに仲もよくない物理・数学・化学その他の専門部が一致して物理学界の例会で討論をやり、竹内時男という人の学者的立場は、そのにせものの本来をむき出しました。この事に一般の関心と興味の向けられた情熱は一種まことに面白いものであったと思います、うそにあきているのでね。
そしたら新聞か何かのゴシップに、この頃は彼の研究室に助手となるものがなくて閉口ですって。大笑いしてしまった。それでもやはり先生をしていたのかと、却ってびっくりよ。よく先生になっていますね。肝心の学問がそんなで、根性がそんなで、無上のスキャンダルをおこしながら。石原は原アサヲと一緒になって学校やめさせられたけれども、彼の学者的実力は決していかがわしいものではないのだそうですが。学校もひどいと思います、生徒こそいい面の皮ね。
寿江子開成山からかえりました。あすこもすっかりかわりましたって。小二里ほどある山のまわりに兵営が出来て来年は寂しい林の間の道に小店が並ぶだろうと云って居ります。
八月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十八日 第三十七信
これはこれで、又妙な飾りつきね。イトウ屋の紙よ。半紙はやはりだめだそうです。九段へは電話をかけておきました。例によって二三日中には上りますそうです。北海道の方は一段落ついた由で、珍しく電話口で声をきき
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