ますまい。可笑しいわね。このドタバタが一かたついて、私はやっと落付きますでしょう。四月以来随分輾転反側でしたが。この家は足かけ五年でした。間に十三年という年をはさんで、十三年のときと今との心持をくらべて見ると興味があります。ずっと今の方が進歩して居ます、必然ですが。極めて巨大なスケールで、モラルを示されているし。こうやって、いろんな思いをして暮して、ユリが段々事物の価値をはっきり見るようになって、さっぱりして、しめっぽくなくて、かさばらなくて、そしてユーモラスであるようになれば、少しはほめてやってもいいと思います。
 ヘミングウェイの小説は相当なもので、自然主義期の感情の質との相異を沁々感じさせました。透明である憤り、憎悪、そういうものは今日から明日へのものね、例えばドストイェフスキーなんかにしろ、人間のそういう感情はいつも暗さを伴っていました。初発的とでもいうのか、あの時代には何だか感情はそれだけで暴威をふるったのね、人間をひきまわしたのね。理性は随分あとからいつも駈けてついて歩いていて、そして間に合わなかったのだわ。最近の十年の間に、そこが変った。これが現代文学の根源的変化です。感情の方向が変ったというより質が全く変っていて、ひろい内容を感情しているし、さっきの憤りにしろいやさにしろ、それはくっきりと感じられていてしかし作者はその感情で頭を濛々《もうもう》とさせてはいないのね。ここが急所です。十九世紀から二十世紀の三十年迄の文学精神は、云ってみれば濛々とすることそれ自体をよりどころとしていたようだけれど、ちがって来ています。私は父に死なれたとき、すきとおって、明るくて、悲しくて悲しくて、しかも乱れることの出来ない感情を経験しましたが、そういうものがひろがるのね。理解の透明さでしょうか。
 明るさの本来はこういうものであるわけですね。私がいつか手紙に、私は単に快活であったのだろうかと書いたことがあったでしょう? 快活さの上は、そのような明るみに通じる可能をふくみ、底は甘ったれやいい気や軽率さやにも通じるものね。快活が時にやり切れなく単調である所以ね。明るさは光りだからそうではないわ。色を照し出しますもの、ね。人は所謂朗らかではなくて明るくあり得る筈です。そういう明るさ、渋い明るさ。男らしさに通じるもの、それは人間の美しさだから女にも通じているのよ、女がもしもう少し動物的でなくなれば。或はそのことを自分で心づけば。
 ヘミングウェイの小説は、あれこれ濛々的文字の氾濫の折から実に快うございました。
 隆治さんこちらへ珍しく二枚つづきのハガキくれました。休み日でレコードを戦友がかけているそのわきで書いているのですって。七月二十六日に島田から書いた長い手紙への返事よ。きっとあんなに細かく書いてあるのにペラリと一枚ではわるいと思ったのね。この間あなたのおくりものやいろいろよかったと思います。では明日。きょうは乾いた天気になりました。

 九月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 本郷区林町二一より(封書)〕

 九月十日  第三十八信
 随分久しい御無沙汰になりました。この前は八月二十八日に書いたきり。あとはパタパタさわぎで、あなたもくしゃみが出るほど埃をおかぶりになったというわけです。
 きょうは私としてはいい雨よ。やっといくらか落付きましたから。自分の机をおくところだけ、どうやら埃の中から島をこしらえて、となりの室や廊下にはまだがらくたの山をのこしながら、エイ、と今日はすこしものを書いてさっき送り出したところです。
 八月二十九日に林町へ行って、さて、とからかみをあけて長大息をして、それからはじめて五日までに一応あっちのものをこっちへもちこめるようにして、目白の荷は三日にもち出しました。九月一日に、何と話が間違ったのか荷車が一台来て、ふとん包みなんかもち出して、一日おいて三日にオート三輪四遍往復して、あとリヤカー二台で大きいものを動かしました。本がえらくてね。重量も大きいし。それから四日にもう一人来て貰って二階へはこびあげて、畳もいくらか埃をはたき出して貰って、ともかく納めました。本はまだそのままよ。玄関わきの書生部屋に入っていて、これには閉口です。どうしたって出さねばならないから。五日には派出婦さんに一日休みをやって、七日の日曜日に佐藤さんが引越しました。引越しをすると、本当に簡単に暮したいと思いますね。私たちのような生活でさえやっぱりいろいろとごたごたがあるわ。としよりのいる家なんか全く大したものです。何のためにそういうものがとってあるかと思うようなものまで、やはり引越しについて来るのですものね。
 月曜日はおあいさんは目白に働いて、私はこちらに一人で、いろいろ古い雑誌の整理なんかをポツリポツリとやり、きのうの火曜日はあれからかえりに目
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