作家の成長のモメントがそこにひそめられている、そう感じます。成長ということは徒らな順応のみではない、そこも面白いところですし。小林秀雄が、歴史小説について、歴史がひとりでに語り出すのを待つ謙虚さが大切ということを云って居ます。人も問うに落ちず語るに落ちるではないか、と。こういうひとの考えかたは、どうしても、白髪になってもやはり髄ぬけのままなのね。尾崎士郎は庶民にかえれ、と云っている。精神を庶民の精神にしろ、というのですが、そこでは受動性の肯定で云われて居ります。文芸面もそういう工合です。
病気の手当法についてのお話。どうもありがとう。私も日頃そのつもりで居ります。それがいい方法ということが確められて一層ゆとりが出来ます。でも急病になんかかかりたくないことねえ。まして疫病で死になんかしたくないことね。この頃の豆腐は恐ろしいのよ。極めて悪質の中毒をおこします。うちでは、この豆腐ずきなのにたべません。出来る用心は細心にして居るわけですが。
重治さん茂吉論も駄目でしたって(中公)。
筑摩の仕事をすまして見てその頃の状態によって、暮しかた考える必要があるだろうとも思って居ります。
きょうも昼間は大分暑うございましたが、風は秋ね。秋が待たれます。十分夏らしくないくせに体にこたえた夏でしたから。
お愛さんという娘はこういう娘としてはましの部よ。いろいろまめにいたします。ひねくれていません。月曜日にはお愛さんをつれて林町へ行って、泊って、寿江の荷造り手つだいます。
八月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十三日 第三十五信
お手紙けさ、ありがとう。本当に今年の天気はどうでしょう。私も汗の出ないのには今のようなのが楽ですが、でも心配ね。こんなひどい湿気は決してあなたのお体にもよくはないでしょう。つゆ時と同じですもの。
きのうは、夕方八重洲ビルへ行って、国男と寿江子と紀とで夕飯をたべました。国さんの誕生日でした。天気があやしいので雨傘をもって、無帽でバス待っているところを眺めたら憫然を感じました。髪の白いのはかまわないが、ふけたこと。あなたなんかどんなに見違えになるでしょうね。私の弟だと思うひとはないのも無理ないと思います。余りひどく呑んだりすると、あんなに早く年とるのかしら。衰えているというのではないのよ。精悍なのですが、輝き出しているものがないというわけです。一昨年の誕生日には咲枝の兄夫婦をよんで庭で風をうけながら夕飯をたべて、夜なかに咲枝が産気づいた年でした。その前の年はやっぱり咲枝たち開成山に行っていて、私が国男さんを神田の支那へよんで、緑郎とおもやいでゾーリンゲンのナイフをおくりものにした年でした。きのうもね、国男すこしほろよいなの。寿江子一緒にかえりたがらないで一人で市電にのってかえしてしまって、私たちは省線迄歩いて。そんなとき私は国男が可哀そうでいやあな気になるのです。ともかく自分の誕生日によんで、一人でかえるなんて。私はいつ迄も気にして、いやがるのよ、寿江子は。兄と弟とはこんなにちがうものと見えるのね、寿江子の方は、何だか妙にねっとりして来る兄貴なんかと一緒にかえりたくないのね、それもわかりますけれど。でも何だか薄情らしくていやに思える。さりとて私がぐるりとまわってかえるのも余り時間がかかるし。始終一緒に暮していると、あっさり先へかえしたり出来るのかもしれないわね。私たちはあなたも私も一番上で、弟たち妹たちしかしらなくて、その心持は年をとってもかわらず、却って年をとると又別のあわれさが出来たりするところ面白いものですね。親が、子をいつ迄も子供と思うの尤もね。あわれに思う心というものの面白さ。
ゴッホがこの頃妙な流行で読まれます、「焔と色」という小説を式場が訳して。弟のテオというのがいてね、これは画商の店員をしているのが終生実に兄のためによくしてやっています。こんな弟は本当に珍しい。テオという単純な名が、その気質のよさをあらわしているようです。ゴッホのような個性の極めて強烈であったひと、病故に強烈であったところさえある人の生涯の物語が、今日の日本の人々によまれるというところもなかなか心理的に意味ふかいわけですね。個性というものを人間は失えないものだ、ということの証左です。
「女性の現実」の中の数字のこと。私あれをいろいろなもので見たのでしたのに間違えたのねえ。しかし、女の働くひとの総数はその位のようですよ。月給もそれは新聞の日銀統計で出たのでした。平均というのは、工業の熟練工で一番とるのが平均三百何円で、女の最高の平均が百何十円というのなのですが、そのことが分らないように書けていたでしょうか。最高でさえ男の半分しかとれない、ということをかきたかったのでした。
『ダイヤモンド』ありがとう。と
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