っておきましょう、私が見たのは谷野せつの調査や新聞の切りぬきや年報やらでした。
 私がこれから書くものをおっくうがって気がすすまないのも、この号令式がひっかかりがちだからだろうと思います。
「ケーテ」面白く思って下すって満足です。私は芸術家の女のひとの伝記がもうすこしあったら面白かったと思います、音楽とか絵とかね。本朝女流画人伝というものだって私が書いてわるいということはないわけでしょう? そういう仕事だって、やはり前人未踏なのよ。いろんな女がどうして女の業績全般に対してひどく無頓着なのでしょうね。発揮は私いつも輝とかいていたようです、これからは手へんにいたしましょう。光の方がいかにも自然にかけてしまっていたのです、でも世間から云えば当て字ということでしょう。
 本当にあの本はともかく今というところですね。
 持薬のこと。きのうはでも思いもかけなくいくらか手にいれることが出来て幸運でした。薬屋さんも親切なのだとしみじみ感じます、全く苦面してくれるのですもの。粒々ありがたくのみこまなくてはならない次第です。
 派出婦のこと、困るのは経済上の点です。ほかのひとを置かなくてはならないなら、この人がいいという人柄で、珍しく縫いものもすきでやっています。縫物が好き、というような人は珍しいのよ。常識的家政学からいうと、派出のひとを今置いておくなんて狂気の沙汰ですが、私は仰言るように背水の陣をしいて筑摩の仕事をしようと思うので、そのためにはやはりいて貰わなくてはなりません。家をあけて、どこかへ行ってしまうことも出来ず。いつものことながら暮しの形はむずかしいので閉口です。菅野さん母子も満州にいる父さんからもし為替が不通になった場合、義兄さんが扶助するのでしょうし、こっちと一緒にグラグラでは困るし。この頃は食料の買い出しだけで一人分の仕事よ。朝のうちパンの切符をとり魚やを見て予約しておいて、午後パンを買いにゆき、八百屋の切符とっておいて次の日買うという有様で、お菓子でもすこしたべようと思えば一日じゅう一人は歩きまわっていなくてはならないことになります。だからうちなんかいつもうまい買物はのがしつづけです。何しろこの間はそちらのかえりに、あの界隈で古ショウガを三銭買って来て大威張りという有様です。思いもかけず、米沢の方から一箱胡瓜、ナスを貰って大ホクホクという有様だったり。
 郡山へは必要上、年内に一遍行かなければならないでしょう、整理しなくてはならないから。寿江子咲枝はそういう点では実に散漫ですから。あのおばあさんはそうよ、政恒夫人よ。運という名をつけるのね昔のひとは。開成山の家の上段の間の欄間に詩を彫りこんだ板がはめこまれていて、それにはじいさんが開拓した仕事のことが書いてあるようでした。いろいろ近頃になって考えるに、じいさんは晩年志をとげざる気分の鬱積で過したらしいが、自分が初めから青年時代から抱いていた開発事業への情熱も、まさしく来るべき明治の波が、底からその胸底に響いていたからこそだとは思わず、個人的に自己の卓見という風にだけ考えていたのね。だからあの仕事全体を、当時の全体につなげて考えられず、閥のひどい官僚間の生活が与えた苦しみを、すべて感情にうけて苦しんだのですね。じいさんの頃、生れが米沢で長州でなかったということには絶対の差があったのでしょうから。私たちにさえ、もしあのじいさんが長州出であったら必ず大臣になっていた人だと云う人があります。じいさんは生涯そんな妙な「であったらば」ということに煩わされたのね、可哀そうに。その煩いのために、自分の輪廓を却って歴史の中ではちぢめてしまっているように思えます。なかなかそうしてみると人は、自分の仕事を思い切って歴史のなかに放り出しておく度胸はもてないものと見えますね。歴史と個人との見かた、個人の生きかたを、そういうリアルな姿でつかめる人は少いわけでしょう。つまりは歴史の見かたの問題だから。
 私は断片的に二人のじいさん二人のばあさんにふれて居りますが、いつかの機会にもっと系統だててしらべて祖父、父というものを歴史的に書いてみたいと思います。
 室積の海の風にふかれていて、私はやはりそんなこと思いました。室積生れのおばあさん、野原の国広屋、それからそれへと。そして、その生活の物語を書いておくのはやはり私の仕事だと。宮本のうちの子供たちは、それをどんなに面白くよむでしょう。過去の生活の歴史を知るということは、人の一生が空虚でないということを感じて、少年にはいいわ。輝にそういう誰もしないおくりものをしてやりたいと思います。経済上の没落を、おちぶれと見ないだけ、おちぶれないだけの気魄をそういう物語の中からも知らしておいてやることは大切だわね。何しろアキラは、後代の子孫ですよ。オリーブ油を体にぬられて育て
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