だってなつかしき故郷よりのたより、よ。赤紫斑入りの腕なんて、女房の腕として、あなたもお珍しいでしょう、きょうは見事なんだのに。惜しいこと。背中で蠅が盛に集団運動をやっています。蠅と云えばチェホフに蠅をとっている退屈な人の物語がありますね。あれはきっとタガンローグという彼の生れた町での見聞ですね。タガンローグの町には小さいチェホフの博物館がありますが、そこの中央ホテルという大[#「大」に傍点]ホテルには食堂がなくて、となりの食堂へ行くのよ。そこで美味しい魚の清汁をたべましたが、美味いも美味かったが蠅がひどくて、ほんとにスープたべているサジについて口へ入って来そうな勢なの、太ったおかみさんがいて日本の女が珍しいもんでわきにくっついて喋っていて、何て蠅が多いんだろうと云ったら、何だか陽気にうれしそうに笑いながら、ここの土地にはどっさりいますよ、と云ったわ。自慢していいものみたいに。その町の裏に出口のない湾みたいなアゾフ海があって、崖があって、人通りがありませんでした。あの博物館や蠅や、この頃いかがの工合でしょうね。大した犠牲です、全く大した。人間は進歩のために自身を最大に浪費するかと思えます。輝は、あなたが余り御ひいきなんで、家じゅうで大笑いしました。又くりかえしますが、男の児の男の児らしく、くっきりしたのっていいわねえ。見ていても愉快で、可愛いことね。男の児の男の児らしさ、而もその無心さ。やっぱり健康さには、この男の児らしさ、女の児らしさが、くっきりしているという点が伴うのねきっと。充実した自然のほほえましさが可愛いという感じに通じているのだわ。この子はほんとに一寸抱いてはいと見せてあげたいと思います。ひるすぎおばあちゃんと母さんのひる休みの間、よく輝は二階へつれて上られて、私の机のわきにねているのよ、そして眠っていることもあり、チュッチュッと音をたてて手を吸っていることもあり。
便通のこと、早速会議にかけましたら、この頃は大変よくなって、毎日一度は必ずあるとのことですから御安心下さい。うちの母さんは私が心配するぐらい、余り食べないんだけれど、ちょくちょく間にたべた方がいいたちだって、まあよろしくやってゆくでしょう。でも二三人子供もって疲れを出したりしないように、よく気をつけなさいと云っているの。骨細ですから。
汽車はこの頃実に通ります。先は冬の夜なんか貨車の音がガチャガチャンとしたりして淋しい村駅の感じでしたが、この頃は夜中にもひどい地響を立ててひどい速力で通ります。頭に響いて、いやあな気持で目がさめます。河村さんよく暮しているようなものね。村道も夜更けて、夜なかでも人が通ります。用事もふえた証拠です。手塚さんの旧い家をかりている医者が召集をうけました。あとはお母さんたちがかえられてから、達ちゃんの様子をお知らせいたしましょう。あしたは多賀子、冨美子とまりに来ます、私がかえる前にもう一度会いたい由で。もうあっちへゆくのも面倒だし。
きょうはむし暑くなりそうね。魚も何もなくて、茄子《なす》もないの、皆がかえって来たら何を御馳走いたしましょうね。おや肉を売りに来たわ。(いろいろの物音がきこえて面白いでしょう?)でもこっちにはこうやって肉があるから大したものなり。きゅうりにつめて煮てでもたべて頂きましょう、お母さんお好きかしら。
どうもきょうの天気は困りね、可哀そうに。広島で三人はどうしているでしょう。今一降り大きく降って、うちは二色の音楽よ、ピーン、トン、ピーン、とん。これは御仏壇の前の深いバケツに雨が洩る音。もう一ヵ所どこかでトン、トンと落ちているけれど、そっちの方はいやに陰性で、茶の間の私のところからはどこか見当もつきません。小さかった頃うちに硝子戸がなくて、雨が降ると雨戸をしめて、いくらか間をすかして、そのすかした間から吹きこむ雨で縁側がぬれると、私たち子供は面白がってすべって歩いたものです。うちの母は雷が猛烈にきらいで、どういうわけだったのでしょう、考えてみれば滑稽だけれどひどく雷が鳴ると子供を三人自分の膝の前へかためて坐らせて、頭の上から黒いゴム布をかぶせて、息もつかないようにしていました。随分暑苦しくて、何だかその方が雷よりこわい夕立めいた物々しさでした。地震部屋というのもありました。これはいつか書いたかしら。廊下のはじにいきなり一枚戸をあければ出られるような一間半に三四尺のトタン屋根のつき出し小舎があって、そこに毛布、ビスケット、ローソク、衣類なんかがいつもおいてあったこと。いざというとき一先ずそこへとび出して、それから逃げようというわけだったのね。それを使うほどの大地震はなくて、やがて子供たちはそこを雨の日の遊び場にしました。そして震災のときはもう夙《とう》にそんなものなくなっていて、倉が立っていました。西村
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