きょうはもう曇天よ。
 きのう朝十時半のバスで野原からかえりました。野原から島田市のところまでは人通りが東京のどこかの横町のようよ。野原の徴用土工たちは、朝六時すぎ、夕五時ごろ群をなしてあの前を通ります。朝早くお墓り[#「墓り」に「ママ」の注記]をして、それからかえったわけです。あの丘ね、あなたが小さかった頃よくお遊びになったという、あの小山の横手にすっかり官舎が出来て、まああんなに景色のいいところだのに、家と家とはくっついて木もないのよ、そのすぐ上が火葬場。
 それでも野原の風はまだ心持よい沖からの風で、お宮の縁に小学上級らしい少年が二人、一冊の本に一人が何か書き入れのようなことをして居りました。そして、お手紙の貼ってあるのをよんでいたら、室積の途中の松原のところや、島田と野原の間のあの池のところが、あなたの勇気のいる場所だったというのをよんで、大いに愉快になりました。きっとそうだったでしょう、今通ったって、やはり印象にのこる独特のところですから。あの池のところは、尤もひどい変化で、右手には工廠の塀つづき、左手のあの池が貯水池になって居ります。でも一種寂しい趣は漂っていて、妙ねえ。ああいうところというのは。野原の横へ出て見れば、全く截りひらき、平らにし、建てかけているという赫土の地肌が到るところにむき出しで、新開の気分充満。その気分が軒並の小店となって村道にあふれている次第です。
 野原の家のとなりの材木屋があの二階つきの翼を買ったのねえ。いつか行ったとき何心なく下駄ばきで上って行って見たところ。あすこがあなたの部屋だったのですってね。材木屋の小さい六つと五つの女の子が一昨日の祭日には、きれいな着物を着てあの二階に遊んで居ました。涼しそうな二階ねえ。今時分ここにいたのは初めてですから。
 私は大分グラついて、本当に何とかしてこっちで仕事しようかと考えましたが、何だかそれもいろいろ無理だし、第一、八月という月一杯、東京にいないという気にもなれず。本屋のこと考えると余りのびていて身がちぢまる思いですが、仕方がないわ、やっぱり東京でやることにいたしましょう。
 あなたの眼はいかがでしょう。トラホームの本つきましたろうか。私は大体変りなし。大体という勿体のつけかたは、何となし腸の工合が上々でないというだけです。何しろ大水の出たあとの井戸の水をのんでいるのですからね、いくらも水はのまないけれど。チフスの予防注射の安心が思いがけないところで役に立って居ります。
 達ちゃんの盲腸は、その後一向音信なし。音信外出なしというのがこの頃の原則らしくてね。きょう、Tが広島へ部分品を買いにゆくついでに何とかして様子をきいて来るとのことです。友ちゃんもきのう届いた机で達ちゃんへの速達のかきぞめをいたしました。どうせ東京へかえるなら、達ちゃんにもう一遍あえるならあって、そしてかえりたいと思って。徳山仕立の急行でかえります。
 その後お母さんお元気です。友ちゃんもやつれすこし恢復しました。達ちゃんは修理の方の由です。修理の一番こわいのは、前進してゆく後から故障車を収容してゆくときだって。さもありなん、ね。でも対手が人でなくて車だから気持はいざとなればちがいましょう。
 こんどは達ちゃんもおかみさん子供もあっての出征で、万々ガ一、どんなことがあるかもしれないから、分家戸主の届けをしようと云っていらっしゃり、それはいいでしょう。友ちゃんや輝が、それで直接の関係が明瞭になりますから。
 あの町の一部は、徳山の一番にぎやかな通り、駅から出て丁の字に大通りにつき当るでしょう、あすこのどこかね。
 このあたりには、むずかしい名の山や河や池があること。たとえば室積で机買ううちをセイキ、セイキというのよ。どうかくのかまるで見当つかず。清木ですってね。このお手紙の小山の名、何とよむの? 岐山きやま?
 寮歌はやはり昔ながらでしょう、その昔ながらというところに一つのセンチメンタルなよさがあるのではないの? 高校と云えば松山ゆきも実現いたしませんね。柳井から高浜までたった四時間半ぐらいなのにねえ。まあ、又のおたのしみにしておきましょう。かえりに倉敷で一寸おりて大原コレクションを見ようかと思いましたが、これまた汽車のつづきがわるくて、あのあたりで急行にのりついだりしたら、立って東京迄かえらなければならないでしょう。これも亦いずれのおたのしみ。
『週報』のこと。あの電話の模様だとね、ちぢみのシャツ、ズボンの無精髭を生やした五十すぎのだらしのない男が、三四人人をつかって、妙な机並べてやっている、そういう感じよ。ごろつきくずれの昨今仕事めいていた、いかにも近代事務性に欠けて居る感じでした。きっと寿江子が電話口でかんしゃくおこして汗をふくことでしょう、名前さえその親方[#「親方」に傍点
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