冷いもののまない方だから。ところが、この頃玉子にしろ牛肉にしろ配給の都合で、肉なんかあるとき勝負で、きのうなんか二ヵ月ぶりですこし買えました。バタにしろそうだから、すこし力のつく食物を心がけるためには冷たくしておくところがいるのよ。で今年は一つ買おうかと云って見たら、迚もうちには買えないようなのばっかり七十何円、八十何円。四五十円のなら氷一貫目で、一昼夜どうやらモツのですが。もしみて、その位のがあったら買おうと思います。そんな風になって来るのね。もう久しくバタもたべず油もきれていて、それでいくらか、かたまりそこねのところてんかもしれないわ。みんな暑気がこたえるらしいわ今年は。どうぞあなたも呉々もお大事に。本当に、よ。暑気に対して体力が負けている感じはいやね。私は割合夏はがんばれる方だから、今のところ珍しくて、調子が分らないようです。どっこも悪いのではないんでしょう、熱もないし。一年の間の食物の変化なんかがこういう工合にして影響をあらわして来るのでしょう、きっと。今年の夏はきっと仕事のある人たち、何だか精力的でないと思っているかもしれないわ。お米にはこの次の配給のとき一キロ青豆のほしたのがついて来ます、お米の代りに。
 こんなこと書いている、これも一種のウォーミングアップかもしれないからどうぞあしからず。
 仕事の下ごしらえで、アランのちょいちょいした論集をよみました、幸福についてや何か。アランはこの二三年来日本に流行して紹介されるフランスの哲学者よ。アンリ六世高等学校の教授。直観的良識をアラン独特の感性にとんだ表現で語ってゆくひとですが、日本にアランのはやる傾向の意味もわかります。アランには体系というものは一つもありません。一定の立場というものもなくて、あればそれは全面的というようなもので、強制のない[#「強制のない」に傍点]美しさをあらゆることに求めているところがある。おわかりになるでしょう? ちょいと面白いところもある。だが、文学について又人生態度について不十分なところ或は間違っているところもあります。いつかアランが詩と散文について書いている点で、不備だったこと書きましたろう? 詩は真直に立っている(精神が)、散文は現象とともに走りまわっているものだ、ということで。アンドレ・モロアはこのアランの弟子ですって。アランのところでは辛うじて良識の域にとどまっているものの見かた(もう一歩で常識、保守に入りこむところを)が、お弟子ではちゃんと地辷りしていて、あの如き有様なのね。
 そう云えば『誰がために鐘は鳴る』の下巻出ましたね、お買いになった? まだ? 送りましょうか? 机の横にはあの平たく低い方の本棚(あなたの)があって、そこには河出の世界文学叢書と、岸田の『美乃本体』だの小田の『魯迅伝』だの、ちょいとよみたいものも置いてあります。
 文泉堂という本やがあってね、これは『古事類苑』だの何だのの月賦販売者ですが、いろいろの名士のところへまわって歩く、妙な中爺ですが、この男はいろんな人間を見ているものだから一種の哲学をもっていてね。伊藤永之介の書斎を見ましたが、寄贈本ばっかり並べています、あれじゃ先が見えて居りますハイ、と云っていました。こういう云いかたにはいやなものがあります、しかし本当のこともふくまれている。ほんとにしろ、いやだけにしろ、いろんな人をとおすところに本はおかないものだという教訓がここにふくまれて居りますね。うちの茶の間には置場がなくて万やむなく二つ本棚をおきますが、それにはカーテンがかかっていて、それも実におかしいカーテンよ。というのは、こっそりあけてなんか迚もみられないの。というのはね、この頃、ハリ金、金棒なしですから画鋲でとめてあってね、布がおもいからうっかり手をさわるとすぐポロポロにこぼれてとれておちてしまうのよ。素晴らしいでしょう。文泉堂もその中までは見られませんからね。一つは日本文学史関係の本棚、一つはまだちゃんと整理してなくて、ガチャガチャ。書斎に人をとおせるのは学生時代だけでしょうね。
 なるほど、こうやって机に木綿の布をかけるのは妙案です、本当に楽よ、手がこすれてもキューキューしていたくなくて。それにきょうは私一人でまだ派出婦来ないから、黙っているのもいくらかいいらしい。浩子さんは、ものを考えつづけている人の顔に馴れないからキゲンわるいのかと心配するだろうと思って、下にいると、ついつとめても話していたから。何だかこうやって黙っていると、すこしおなかに力がたまって来るわ、益軒の「養生訓」に、おしゃべりするなということが多分ありました。それは当っているわ。
 この本箱に『支那女流詩集』があります。女の詩人はすくなかったのね、各時代を通じて二三首ですって。支那では歴代の集、「唐詩選」、「三体詩」、「唐宋詩
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