のでしょうねえ。波が体にあたってとびちるとき、体の下をすべっておされてゆくとき波は小さい笑いのように燦《かがや》くし、独特のざわめきを立てるのですもの。自分のなかで縦横におよがれるとき、海は自分が海であるのがどんなにうれしいでしょう。
 まとめる仕事、本当に、仕上げるからには大いに奮発いたしましょう、私はこの本は今日の生活からかけている生きる歓びをつよく、つよく脈うたせたいと思います。それが私のモティーヴです。明智をもつこと、そこにある美しさ。つよく意志的であること、それの可能であるために必要な科学性と感性との統一。バラバラにほぐされているものを互の正しい関係で自身のうちに発見させてゆけたら、それはやっぱりいいことでしょう、肉体のよろこびと精神のよろこびがどんなに一致したものであるかということにしろ、或人にとっては啓示かもしれないのですもの。では明日ね。

 六月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 六月二十九日  第三十一信
 面白いのね、二十五日午後のお手紙、けさよ。二十六日朝は二十七日朝で。
 二十五日へのから先へ。しかし、それよりもっと先にお話ししたいのは、きのう、雨の中を原宿の方へ浩子さんとアパート見に行きました。新聞の広告を見てね、浩子さんがひとりで行って見て六本木の方への出場はいいし、あたりはいいしするけれど、何しろ四・半で二十九円五十銭、六畳では三十七円(!)というので決心しかねているの。この頃のはこういうのよ、ひどいでしょう? 原宿から右の方へ行って、河に沿ったところですというの。その川には私心覚えがあるようで珍しかったので、それもあってじゃ一緒に見てあげましょう、と又出かけました。丁度あの並木のきれいな参宮道からちょいと右へ入ったところの細かい長屋の間に建っているアパートです。河というのは、この辺では両側がコンクリートの崖になっていて、丁度下落合あたりの川のよう。六畳は東南と二方に窓、その川を見下すの。四半は、西向で、めの前に黒くぬったトタン屋根が二重三重にあって、そこへ西日がさしたら、小さな四角い室は熱の反射箱のようになってしまう工合です。だから空いていたのねえ。きっとこの間九十二度という日(この二十五日でした)その暑気でにげ出したのね、来てくれてよかったと大よろこびでした。
 それから渋谷へ出る大通りの角で蚊やり線香を買ってかえり、二人で青い豆の入った御飯をこしらえて、どっさりたべて、きょうは早ねよと十時に二階へ上り、すこし小説をよんですぐ眠りました。
 浩子さん、きょうは又世田ヶ谷へゆきました。その前に千駄ヶ谷の方のアパートを見てから。私もそろそろ本気に仕事したいから家が見つかってくれるといいと思います。仕事する神経は分らないのが当然ですから、二階から下りて来ると、やっぱり話したい風で、対手にならないのも気の毒ですから。
 きょうもむしますね。眼は本当に大事に大事に、よ。でも、わるいのはゴロゴロするんでしょう、やっぱり。
 髪おきりになるといいわ。きっと本当にうるさいようでしょうから。水でサアと洗えたらいいお気持でしょう。女でもそう思ってよ。すこし大入道だって平気よ。もう私の目にはそういうあなたの御様子もちゃんとしまってあるから、アラなんて目玉は大きくしませんから。グリグリ坊主におなり下さい。
 五月十一日号、どうしたでしょうね、きのうのうちに着いたでしょうか。ああいう方法を発見して、これからはすぐ計らえますね、電話かけてたしかめて、価をきいてすぐカワセつくって速達にしてしまえば、私が行こうとダラダララインにかけるよりずっとスピーディです。
『東洋経済』も全くそうでしょう、綜合雑誌についてのこともそのとおりです。まれにほり出しものがある、そういう程度よ。
 海の連想はやっぱりでしょう? きのういつかお目にかけた海と陸との太陽というヴォルフの写真帖が出て来て、又くりかえし眺めてきれいだと思っていたところでした。私に泳ぎ教えて下さるという話、何だか不思議な幻想のようにリアルよ。虹ヶ浜の夕方や夜を知っている故でしょうね。自分の体がそうやって海に入っている感覚や、あなたにつかまっている気持や、ぬれて光る体やまざまざとして、想像される、というよりは感じられます。
 ひところよく通俗小説に海を泳ぐ男女がとらえられましたけれど、本当はそういうポイントとは全然ちがった美感があっていいわけです。実際それはあるのだけれど、何というかしら、そういう運動の中での感覚は感覚そのものとして生命的で、自然的であるから、よほど作者のつかみが複雑でないと感性的な面ばかりになったりしてしまうのでしょうね。
『文学の扉』『たんぽぽ』明日お送りいたします。武者さんは相も変らず、よ。同じポツポツ文章に年功がかかって、あのひと
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