うのよ。手間をかけてもね。前のようなモラルは、極めて一般的であって、それは私でないAでもBにでも特長のないものの道理の当然であってね。
 生活のなかに美しさを多くもってゆくということ。そして、美しいものを、自分がながめるときの様子を、わきで見たらどんなかしらと思いました。美しいものをみる視線は不躾けでないということは味の深いことね。美しいものに対して私たちはごくつつましい眼つきを与えるか、さもなければその堰《せき》をのりこえて全傾注を面に現して、その美しさの裡に没入してゆくしかないのね。美しいものの上に視線を凝せばおのずから表情も変って、美しさはそれを見ているひとの面に映り栄えます。いろいろの場面で、自由にそういう美しさのうつっている顔をして暮したら、現代の人間の顔だちは一般にもっと気高くて情感的でしょうね。しみじみそういうことを感じながら歩きました。感動し得る、という感銘をうける顔さえ少いのですものね。何かそういうものとはまるでちがった日常の打算だの何かで面《メン》をつけたようなツラをしていて。それは人間の顔ではない、でも人間の顔だというところにバルザックの世界はあるのだわ。美しいものを限りないその美しさのまま、醜さをその醜さでちゃんとうつす顔、そういう顔、そういう人間の顔、をもっている女はすくないわ。全くすくないわ。
 ねえ、こういう感情があるでしょう? 美しさは固定していなくて、益※[#二の字点、1−2−22]その美さの中に誘われようとする心、美しさの中に自分を溶かそうとする願い、私の人間の顔は果してそういう願を表現するだけ修練されているでしょうか。
 詩集の別冊をくりながらそれを考えているの。そして、頁をくりながらこの作者は、美しさにうたれたものが、辛くもわが身を我から支えて歩くそういう時の描写をまだしていないことを見出しました。あなたはどこかでもうお読みになったかしら。

 六月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 六月二十三日  第三十信
 二十日のお手紙、二十一日に頂き、きのうその返事ゆっくり書こうと思って先ず目前の仕事を片づけていたら林町から電話で、佐藤功一さんの死去のしらせ。
 国府津のあの芝の庭覚えていらっしゃるでしょう? 父のなくなったあとは、内輪のことで世話になったのよ、いろいろと。一通りというつき合いではなかったから、ともかく仕事をすまして、それから夕飯の仕度をしてたべて片づけてお客に会って、お湯を浴びて黒い服装になって、そして十一時ごろ家を出ておじぎをして一時ごろかえりました。この頃はお通夜と云えば、本当に夜どおしかさもなければ十一時限りぐらい。乗物がありません、夜なかにたべさせるものがなかなかない。ですからよ。
 六十四歳でした。結婚前からの結核で、それを実によくもたせて子供も六七人いるし、その子供たちも別状ないし仕事もして、六十歳を越したのですからよく生活したという方です。派手な性格で、文筆的なところもあって、夫妻で句集なんか出したりしました。二十五年記念に、結婚の。私は子供のときから知っていますから。でも昨夜は何だかすこし妙な気がしました。あれはどういうのかしら。何だか余りサバサバ片づきすぎ手まわしよすぎ、要領がよすぎて薄情っぽい空気でした、万端のとりさばきかたが、ね。故人の周囲に情愛がめぐっていないのよ。変に大きい家ってああなるのでしょうか。林町でもはた目にはああだったのでしょうか、もっと間が抜けていたと思うけれど。余りとり乱しすぎない空気も変ね、こっちが心を動しているのが感じられるなんて、変ね。
 うちの若いお客さんがたも家さがしが大変ですが、何しろこれ迄一度も貸家さがしはしたことがないというお人たちですから、さがすということがどんなことかのみこめないらしいわ。じきくたりとしてしまって。マア、うまく二人でやってゆけるようにと希います。旦那さんの方がとても持ちにくいたちだが、おくさんはまだそこがよくわかっていなくて、私はいくらか気の毒よ。全く結婚て不思議ね。お嫁に来るということの不思議さ。ねえ、見合結婚だからこそ結婚出来るということなかなかあるのねえ。音楽なんか分らない人の方がいいと云う条件でしたって。東京の女なんかいやだというのですって。でもこの浩子さんというひとは、貸家さがしを知らないということでは都会人でないかもしれないが、すべて都会風でちっとも田舎めいてなんぞいないわ。いろいろのことが一目で比較される、そういう面での東京女は手に負えないというわけでしょう。浩子さんというひとは正反対に率直なひとよ。小《コ》ていな小市民生活の中で大きくなって、きりつめた暮しにおどろかないのは本当に良妻です。本当にどうにかうまくやってゆけばよいと思います。三吾さんと二人のさし向い生活って
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