あるわ、生活感の。私にそれがいいことでしょうか。決して決して、そうではない。心の声がそう叫びます。その叫びは本当よ。しかるが故に、林町へ送られるのは私でなくて荷物であるべしということにもなるわけです。荷物がいつかかびたりくさったりしたって、それはもの[#「もの」に傍点]だわ、生きている私ではないわ。生きている私は飽くまで生きていなければいけないわ。本当に仕事をする生活、勉強し、精励な生活、それは、自分にこれでいいのだと納得出来ない生活からは生れず、私はいつもそうです。これまでだって。親のいた頃だって林町にいきりになれなかったのですもの。家の件は、こういう工合に推移して来て居ります。何とか、こっちの方向で解決したいと思います、そして、あなたが「朝の風」についてあの女主人公が部屋借りにうつらなかったことを必然がないと云っていらした、そのことを思い当ります。そうなって行って、それではじめてわかるという道があるものなのね。では明日。
珍しくきょうはGペンでかいていて、その方が万年筆よりなだらかでした。
六月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月十八日 第二十九信
大笑いね、私は再び、というよりは寧ろ忽々に舞い戻って目白のテーブルでこれをかいて居ります。
昨夜、おばあちゃんが八時三十四分でかえり、それを上野へ送って行って、きのうから三人となりました。家が見つかる迄この調子でやって、もう五日か一週間したら石川さんという若いすこしはましな派出婦が来る予定です。この子は、ものをかく女のひとの暮しも知っているからこの間うちのひとのようにおそろしいことはないわ。でも、その恐ろしい人さえ、大変いいうちと云って会に好評をしているので、あのひとさえそういうならと、案外石川さんを予約出来たりする様子です、虎穴に入らずんば、のところがあっておかしいわね。
さて、先週の火曜からの一週間は、私にとって輾転反側の一週間でした。そして、いろいろと発見をいたしました。
物をかくひとの生活の空気というものは、学生なら学生が、勉強してゆくのとは全くちがったものであることも明瞭になりました。体の毛穴があるように私たちには精神の毛穴があるのね。所謂勉強は毛穴がふさがってもやれるのね。書いてゆくこと、何かつくり出してゆくことはこの毛穴のうちと外との流通、呼吸がちゃんとしないと迚も溌溂とゆかないものであることが生理的にわかって、林町では、私の毛穴はぬりごめよ。精神のそよぎというべきものがどこにもない一家の空気、どう生きて行こうという勢のはずみのどこにもない家、それは全く他人であって、私が二階がりをしているのなら其きりでしょうが、そうでないのですもの、本当に苦しい焦だたしい工合でした。私は何とか落付こうと努力したから猶更ね。
私たちの生活というものは、もうちゃんとあるのよ。それは、そうどこにでもはめこんで、はめ合わせのつくような鈍い角のものではなくなって来ているのね。私たちの芸術的な生活の感覚は、酸素がたっぷりいる種類のものなのだと見えます。
こうやって、それ人がいない、やれこうだと、バタバタやりながらこうやってやりくりしてゆくのが、つまるところ生活の一番能率的なやりかたらしいわ。もっと縮めればどこかの二階へ動くという方向しかないでしょう。
林町なんかで、キューキューつめた仕事出来るものではないということが余りわかってびっくりして居ります。それを今まで知らなかったということで、よ。うちのことがうるさいときには、却って宿屋がいいということもわかります。自分の世界がはっきりしていて、こっちから求めなければ乱されることはありませんから。宿屋へかきにゆくということは所謂家庭の道具立てのそろった人にはさけがたいでしょうね。妻もい、年よりもい、子供たちもいる、という場合、書こうとする世界へ本当に没頭し切るのは、そういう空気をつくらなくてはね。自分の方法としてもこの二つしかないことがよくわかりました。
今度の仕事はうちでやることにきめて居りますが、今に何か別の仕事のとき小説でもかくとき、私はどこかへ出かけたいわというかもしれません。一週間に一度ずつかえりながら。そのときになると又何とかわるか知れないが、マア今のところはそうかいときいておいて頂戴。
三吾さんは朝八時半ごろ出かけて、五時半ごろかえります、うちにいる間は私が在宅ならキーキーはやらない風です。本人がそれほど熱心な勉強家でないし、且つ今のところは生活も例外ですから。
奥さんは浩《ひろ》子さんと申します。やはり同じ土地のひとで、全然の媒酌です。家じゅうの人が皆実にいい人たちだもんだからお嫁さんも安心しているのよ、今のところは。これで愈※[#二の字点、1−2−22]二人きりで暮して年が経つうち
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