番切実な感情を、それぞれの手法によってとらえるのかと、そのことで、いやアになってしまったのよ。些か嫌人的になりました、誰彼ということなし。
 壺井の栄さんとでも会う用なら、まだすまなかったからのばすわ、そうね、それがいいわですけれど、ね。
 おわかりになるでしょう? きちんと用を果す果さないとは全く別箇のことなのよ、私の心持にこたえた意味は。こういうところが、機微ですね。そして、同じことを、そのように私なら私がつよく感受するのは、ただそれだけがあるからではなくて、あなたに向っている私の心持全体が生活的に、そういう心持なら、じゃアという扱われかたをうけているものだから、そういういきさつの中で更に、そのひともやっぱり何かの形でその点をつかむということが、がっかりさせるのね。この感じは私にとって初めての感じでした。紙やすりで、胸のどこかをさかさに撫でられたようで。
 今日、あのときのままの感情でいるのではないのですけれど、それでも、どんなにそれは索然たる情けなさだったかやっぱり表現したいと思います。そして、面白い思いも経験しました。そのつまらないという感じを通してでは、良習慣とか何とかいうものへの魅力も、心を輝やかすものとしてはちっとも作用して来ないというのも、あなたにとっては意外に思えるでしょうか? 私は自分の心持を辿りながら、ははアこういうものか、と大いに学びました。
 自分の感情に甘えるつもりはないから、勿論私は出来るだけキチンと事務は片づけるようにいたします。
 ざっとまあ、そういうわけよ。
 書かないだってすむようなものかもしれないけれど、書かずにいられなくて。だからこれだけでは出さないで、次のを拝見してから出しましょうね。
 今夜は本降りね。こんなに永雨式にふり出すと麦が又腐りはしないかと思います、島田で、ずっとむこうの線路の方に水があふれて麦の頭だけそこから出ていた眺めは侘しかったから。ジャガイモはこの間の(十七・八日ごろの)晩霜で大した被害をうけたそうです。
 明日は、実業之日本へ行って、つい先日の千部の印税をとって来ようという予定ですが、きっと降りそうね。『私たちの生活』は来月二十日ごろ本になるそうです、これはいろいろのことからでしょう。まるで順調にゆけば四五日でなくなりそうな部数しか初刷しないのですって。再版がゆけばどしどしのつもりね、商売だからそれもそうでしょう、大きくない本やなのだし。
 弘文堂という本やで、世界文庫という小さな本を出していて、スタンダールの『ナポレオン』なんか出しているのが、ベリンスキーの『選集』を出しました。たった六十銭の本よ。本とは何と不思議なものでしょう。たのしみにして居ります、文芸評論らしいものは何一つ近頃見ないから、食慾を刺戟され、勉学欲を刺戟され、いい小説が書きたくなりますね。ああ、ああ、いい文芸評論家がいたらば! その批評の故に、小説を書くものは励まされるような工合であったらば!
 文芸批評の領域で、読者大衆がどういう風に扱われて来たかという過程は、大変面白いということを、このベリンスキーの二頁ほどで感じました。群集として見られているものの質、及びそれへの文芸批評家の視角。いつか、「どん底」の作者について書いたかしら? 彼の感覚のうちでは群集と大衆というものとの間にあるいろいろのものが、ずーっとぼんやりとしか感じとられていなくて、それが、はっきりしたのはごくの晩年であったということ。そのときもこの点は大変面白いと思ったの。スペインで死んだイギリスのラルフ・ベーツの評論集で小説と大衆、ノベルズ and ピープルスというのがあります、シェクスピアなんかこういうところどうだったのでしょう、ふっと思って面白いと思います。文学史の辿られる糸は幾条もあるのですね、尤もそれがあたり前だが。でもシェクスピアの文学のそういう点での時代の性格を誰が語っているでしょう。彼のリアリズムについての探求で、その点にはっきりふれられているのかしら。バルザックについて、最も科学的な研究に立って書かれた本が出るらしい話です。バルザックから何を学ぶかというものを書いたこともあったから楽しみです。私は秋ごろ本にするもののためにこのベリンスキーはこまかく学ぶつもりです。
 二十七日。
 けさになってもまだつかない。うたのようね。けさになってもまだつかない。きっとそれには心がいっぱいつめられているから重いのね、それで時間がかかるのかもしれないわ。
 これはこれで出してしまっていいでしょう? あとの分は又あとの分として。今朝は晴れました。太陽も出はじめました。うちの物干には足袋を乾しました。足袋がなくて大閉口よ。では、ね。

 五月三十日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月二十九日  第二十六信

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