−7−82]芸術座の話なんか質問したのは私きりというのも珍景でしょう。人間の見かたなんかもいろいろフームと思うところあって面白うございました。鼻下チョビ髭の人は我を忘れて神がかりにすぐなる人、大親分というのがふさわしい人、或は深淵のような人という工合でね。その人はI夫人のお婿さんの由でした。
 さあ今日はこれからそちらに行って、かえって夜は久しぶりで落付いて仕事いたします。屋鳴震動ももうすみましたから。うちの方の大掃除は五月三十日ごろだそうです。すっかり畳をあげてやろうと思い、今から心がけて居ります。
 では又、この次はこんなに間をとばさないですみます。

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[自注5]ヴァージニア・ウルフが自殺したと出て居りました。――イギリスの心理主義婦人作家ヴァージニア・ウルフ。ヨーロッパ大戦がはじまり、ロンドン空襲があってのち、投身自殺をした。
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 五月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月二十六日  第二十五信
 かえってポストを見たらば、からっぽ。やっぱり明日ね。あしたはあしたとして、きょうはきょうのを一寸。何故ならば、ベソの件は別として相当もうたまって居りますもの。
 先ず、チブスの予防注射は完了いたしました。いいでしょう? これで大安心というものです。それから林町の子供たち二人はツベルクリンが陰性で、これも予防注射が出来そうです。親たち二人はもう陽性よ。寿江子だって、私だって。私のレントゲンは来月に入ってからです。今本物の高橋先生(研究所の)が旅行中だそうですから。
 それからね、きのうはね、全く可笑しい日曜を致しました。寿江子が作曲の勉強に平塚の方へ毎日曜出かけるの。この頃。それで、一日くっついて行って海辺の空気がかぎたいというので、雨なのに出かけたのよ。そしたら、平塚というところは海岸に休むところなんてないのですって。ザーザー降りの中を養生館という昔からある旅館へ行って、そこでお昼をたべて、寿江子が稽古に行って、かえって六時の汽車で戻りました。
 こないだっから、スーッとした空気が吸ってみたくてたまらなかったので、雨を冒して出かけたところ、たしかに海岸の空気は吸いましたがびしょ濡れで。でも面白うございました。私ったらね、手紙を書くつもりでね、この紙だの切手を貼った封筒だのをもって行ったのは殊勝でしょう。ところが、余り豪雨の中を強行してフーとなって書くどころではなかった次第です。平塚はつまらないのよ。今度から一緒に出て、国府津へ行っていて、寿江子もそっちへかえって一晩とまる位のことをしようということになりました。せいぜい一月に一度でしょうね。
 平塚は市です。そして、そこの旅館は皆協定して、料理を配給にしているのよ。その本もとがその養生館といううちです。面白いわねえ、養生館というような名のつけかた。母の家の従兄の一人に、体をよわくしてアメリカからかえって来て小田原に宿屋をひらいて、そこで暮した人がありました。それが、やっぱり養生館よ。私が十四五ぐらいのときよく冬そこへちょいと行きました。きたない小さい家だったけれど、今どうなっているかしら。白秋が小田原にいた時分とかに、その世話でお嫁さんが来たとか云々で、却って何となし行きません。親類のひとのやっている宿屋なんて妙ね、却って、さっぱりしなくてね。
 きょうの夜具は、ものの哀れをさそわれました。ひどいのねえ。あなたの布団は毎年必ず新しくしているのよ。綿を入れかえ縫い直しして。今年のようになったのは初めてでした。メリンスは、丈夫なものではないけれどああはなりませんでした。十月から四月まで一枚では、これからは駄目かもしれません。間で一枚とりかえる方がいいけれど、間がこまりますね。本当に困ると思うわ。だって、私が一生懸命心がけたってスフはスフというわけでね。
 緑郎はちょっとお話したようなわけで、今は朝日の仕事していくらかお金を貰っているでしょう。そして、やはりいられるだけいる方針だそうです、それがいいわ。この間写真みたときはでっぷりしてどういうことなのかと思ったけれど、なかなか沈着によくやっているらしくてうれしいと思います、せめて緑郎一人ぐらい何ものかであっていいわ。
 二十二日のお手紙の返事は、土曜のを見てからということですが、私が悄気こんでいたのはね、ものをキチンとする方がいいという注文についてではなくてね。若しすぐ片づかないようだったらそちらに行くのを、それにつれて延期するのだ、ということだけよ。そうだとすれば、私はそれは困ると思って、せっせと済まそうとするにきまって居て、私の心持がそう働く予想の上でしか効力の生じない方法だから、それでツマラーナクなってしまったわけでした。どうして、どんな人でも、私にとって一
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