はないけれど、こういう気分を考えてみると私もなかなかスポーツの精神は諒解して居りますね。相当の登山家ともなれる素質が些かあるようでもあります。チンダルの「アルプス紀行」はそのことを思いおこさせます。氷河のわれ目だの雪崩の観察だの、自分の肉体の力の測定だの、美しい人間の精神の敏活さを感じます。それが、自然を剋服してゆくものとして明瞭です。私も段々にこうして贅肉のそがれた精神の力を身につけて行くのでしょう。さらりとして、自在で、自在であり得るということそれ自体がどんなに中心が確立しているかということを語っているという風だったら見事ねえ。
『文芸』の仕事の間、あついときも上野で暮して、これも実にいい習慣です、その点、やはりのんびりした見とおしがあってね。自分の本棚にない本は無い本だという古典調はないから。楽天的よ。何かまとまった勉学は、自分の書棚だけで出来ないこと痛感していますから。
 私のたった一つのおねがいはね、あなたにのんびりしていて頂くことよ。ピンをとめるべきところへはもうピンがちゃんととめられてあるのですから、ユリはがたがたにならないのだから。きょうあたり、こうやって書いていて、いくらか愉しい心が揺いでいるということは、万更でもないでしょう? 沈丁花がいい匂りだからばかりでもないわ。すらりと、簡素で、しかもしんは瑞々《みずみず》しいという日々がつくられるようにしましょうねえ。極めて実際的によく組立てられて、妙なもやもやのない、やっぱり私たちらしい生活にしましょうねえ。形を変えることが必然であると分れば、それに工夫をこらすのが又一つの愉快さをやがて感じさせ、たのしみを与えてくれるというのは、人間の何という見つけもののところでしょう。いいモーターのように小型で便利で能率のいい生活にしましょうねえ。きっとあなたは一種の安心をなさるでしょうと思うわ。だってユリの育った伝統からの云々というものがもう顔を出す余地はどこにもないのですもの。では明日ね。

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[自注3]花園の被害についての話――戦争拡大のため、宮本百合子、中野重治その他の作品発表が禁止された。
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 三月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月二十三日  第十五信
 この前の手紙さしあげてからもう一週間も経ったのねえ。この頃の毎日の迅さは一種独特な味です。忙しさも亦独特。中公の本の様々の手入れ、手つだいの人が来ていて、(あの娘さん)もう二日ほどで完成です。(表の方は)どんな片わでも、生まれるものなら生んで置きましょう。この忙しさは、粗悪なトンネルがくずれないうちに通りぬけて置こうとするような味ですね。
 附箋つきのお手紙。住所が変ればこういうこともなくなるのだろう、そういう感懐をもってしげしげと眺めます。そして、あすこの門の前のこと考え、たとえばこんな手紙がポストの中に入れられている。門は奥が遠くて、人がとりに来ない。その間に、勝手に手を入れて、何が来ているか見たりするのは必定です、それを考えると、嘔きたくなる位いやです。生理的に苦しい気持がします。その中の一通がなくなったとして、無邪気にどうしたんだろうなどと誰が思えるでしょう。私が先にあすこをいやがった理由の一つにはこれもあったわけです。そして、今益※[#二の字点、1−2−22]いやよ、この点は、ね。何たるいやな場所と思います。このいやさは我ままではないでしょう? 同感をもって下されるでしょう?
 このお手紙に、雨降りでやや寒い。とあります、きょうも雨降り。ややさむい、方ね。「ねぎらい」の描写を思い出していらっしゃるところ、一寸お話したように、大変うれしくやさしいと思うの。一緒によんだ同じ詩でも、印象の濃い行は、独自で本当に微妙なものだと思います。でも、こう書かれていると、あの雄蜂のつややかな躯やすこしつかれて柔かく重くなっている姿など、何とまざまざと浮ぶでしょう。芸術家が心や目に刻まれたものを丹念に再現してゆく力は、窮極には愛からしか湧かないものなのね。それが芸術の精髄的な本質なのね。「よくぞ生れ来たる」この詩は抒情歌の形でかかれてはいますが、実質には雄勁なものが一貫している作品ですね。反対に、テーマが雄勁であり得ているからこそ抒情詩としての流露も豊饒、豊麗であるということにもなっているのでしょう。私たちの生きている感情って実に面白い。今のような心でこの詩の一篇を記憶に甦らすと、その美しさや歓喜の高潮は余り美しくて、よろこびそのものが悲しみに通じるほどなのは面白いわねえ。深い深い美の感覚は常にそんな工合ですね。あら奇麗ねえ、という感歎の言葉がすぐ唇をついて出て来る美しさはその程度というところがあってね。
 芸術家のめぐり会う波瀾というものも、複雑極りな
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