学勉学よ。ほんのちょっぴりでいいからおまじないが欲しいのになアと思うことは、たけきもののふも思うことでありましょう?
 そして、きょうはもう十日です。この手紙を引出しの中にしまい込んで、その上でうんさうんさとやって、きょうは上野へ参り、それで年表が終り、校正に目をとおし、それで放免です。一昨日と昨日とは、年表をこしらえてくれた絵の娘さんをわが家にかんづめとして、本を山積して補充でした。大へばりよ。文学年表というようなものを誰もこしらえないから。いちいち本でその人の年表を見るわけです。たとえば万太郎さんというような人は、私としては閉口ですが、私を閉口させるところが存在性ですからやはりさがしたり、ね。
 索引も出来ました。それの直すところを紙を入れたり。本つくりの仕事は書く仕事と全然ちがうようです。大したひまを費します。
 六日の日ね、そちらからのかえり、私は大変可愛い碼瑙《めのう》のようなかざりものを見たのよ。何だか光線の工合であかい碼瑙の円い珠のような飾りもので、今時あんなものもあるのでしょうか、泉子がみたら、知らず知らず口をもってゆきそうなの。マアと思い、忽ち通りすぎました。
 お金、島田へも手紙つけてお送りいたしました。私たちの赤ちゃん歓迎費として。
 そちらへも着いたかしら。
 図書館へもって行って書こうと思いましたけれど、きょうは間もなく手つだいの娘さんも来て、並んでやるのよ。ですからうちでおべん当ののり巻を買って来てくれる間に、これを書き終って出そうというわけになりました。だから急にせわしくなったのよ。だって、今出さなければ又おそくなり、今夜あやしいのですもの。
 寿江子が今一寸来ていて、昨日一昨日二階へ籠城でしたがおかみさん役をやってくれました。
 きょうは文芸年鑑と、松井須磨子の小説というものをよもうというわけです。スマ子小説を『早稲田文学』にのせたりして居ります、どんなのでしょうか。そんな点も何だか、今のヒヨコヒヨコとは少しちがって興味があります。
「生活と文化の問題」というのを二十余枚かきました。重点は、所謂健全なというものが不健全なものに転化する生活の機微を理解しそれを正常ならしめるたたかいが、文化の健やかさであるというわけです。こんなにあたり前の考えがあるでしょうか、このあたり前のものの考えかたが、女に毒だという考えのお方がカーキーの情報にいます、女の雑誌には、というのですって。女がバカであって便利をうける率はごくわずかなのにねえ。きょうは春めいた日です。夕方までにしまって、寿が夕飯に待っていてくれます、だからきょうは月曜でも一人でなくてすむのよ、およろこび下さい。では明日、ね。

 三月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月十六日  第十四信
 十四日づけのお手紙をありがとう。風邪がややましにおなりになって何よりだと思います。きょうなんかすっかり春ね。そちらにも沈丁花の花が咲いているでしょうか。おとなりの庭にあるのが下によく匂います。
 十四日づけのお手紙をくりかえしよみました。花園の被害についての話[自注3]。表現はすこし風がわりですから興味をもっていろいろ文学的考察をしました。そして大変立体的にいろいろの関係を理解しましたから、私もやっぱりそのような詩趣を失わずに物語るのがふさわしいと思います。中村ムラ夫が、『花園を荒す者は誰だ!』という論文集をかきましたね、昔。結局こんな題の論文なんか書けたのは天下泰平ね。お手紙の中に泰平的テムポのことありましたけれども、あれは寧ろ大局的にはいいのよ。何故なら、もし原形のまま出ていたならそれを種として、必ず波が立ったのですから。そうすると、これからずっと様々の曲折を営んでゆく上に途が切れてしまう結果になったでしょう。芥川の小説の「極楽」というの覚えていらっしゃるでしょう? 一縷の糸につながって極楽へゆくという話。極楽ではないにきまっているけれども一縷の糸もなきにはまさります、その一縷の糸にいろんな名の人がつながって極楽へ行けた云いつたえを信ずればね。仏様はきっと臆病ではないでしょうね。しかし、現実の糸のもちてはまことに兢々たるものですから。一縷の糸に一度シャッキリ鋏が入れられでもすると、もう糸を切られたと絶望して、もっていた手を諦めてはなしてしまいますから。その糸をいかに巧にかしこく手ぐるかというところに蜘蛛の智慧がひそむわけです。蜘蛛は、アナキネという乙女の化身ですって。アナキネは大変織物が上手で、その美しい織物の技術に、或るギリシャの神が魅せられたのを、その男神の恋人が嫉妬して呪詛で蜘蛛にしてしまったのですって。可哀そうね。
 具体的ないろいろのことが大変複雑でむずかしいので全く閉口です。毎日そのことを研究中です。只今のところ名案皆無です。
前へ 次へ
全118ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング