文章で土台の性質について云っているからと云って、それぞれのものの中でオミットして、それを前提のわかり切ったこととして云うことは、やはり一箇の文章としては間違いであるということがわかりました。その課題を、全体として、あの範囲でみているのではないのですから、いかに何でも。文化に冠する固有名詞のこともその通りです。表現の正確さ。このことのうちにどれだけの内容がこめられていることでしょう。そして、狭い作家気質でいう表現の正確さというものが、どんなにその一面に不正確なまま平気でいる悪習をもっているでしょう。表現の正確さ、というようなことに無限の含蓄のあるのは、実に実に面白い。今年はそういう意味で作品も評論も勉強したいと思います。ふっくりとして滋味たっぷりでそして正確でなければなりません。チャイコフスキーのことは、あれだって私のかいた気持は、ゴーゴリが「黄金の仔牛」と発展して来ている、そこにある質の相異のようなものとして、音楽における日本的要素がみられなければなるまいというわけだったのよ。いつも雅楽のメロディーを一寸かりてさしはさんでお座をにごしていてはすまないというわけだったのだけれども。余り間接にしか表現出来ず曖昧になるのですね。逆に、そうだから曖昧でもしかたがないということは全然成り立たないわけであることはよくわかっているつもりです。今年は、いろいろそういう点を特に心がけて勉強しましょう。余り余り忙しいということをないようにして。幸か不幸かそういう傾があらわれても居りますから。概して去年のような忙しさはないでしょう。内部からのテムポで、次々とたゆまず仕事してゆけたらうれしいと思います、本当に去年は忙しすぎました。
 今月は短い小説を二つ書くのですが、それで忙しくないとも云えないわねえ。
 小説をかく心の内の工合と、評論とは同じようでもあるけれど又何とちがうところがあるでしょう。二つの仕事のむずかしさと苦痛とは、一つの状態から他の一つの状態に移るとき、うつりかたの心理的過程です。これは本当にむずかしくて、或る苦痛が伴っているのね。だから大抵一方にしてしまうのね。小説をかいてゆく心のままで書いてゆけてそれがしゃんとした評論であるということは可能なことなのかしら、どうかしら。それを理想として一致させ得るものなのかしら。させられそうであり、させられそうでなくもあり。いずれにしろ、
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