んね。
 婦人だけに限定しない心持で、婦人のためのものをかくべきということは、こういうことから見ても真理だということがわかります。河上徹太郎は『婦公』だの『新女苑』だのに、文芸についての特に女のものをよくかきます。そこでは、読者を意識して文芸評論として正面から扱うと一寸厄介だが、というようなものを扱っていて、そのためにその安易につくところが作用して、しゃんとしたものの筈のところに、一種の婦人向式のところがあらわれるということ。
 女は決して甘やかされてはいけないし、婦人作家たちを見たってとことんのところではひどく扱われていると思います。例えば昨年婦人作家擡頭云々と云ったって、とどのつまり男のひとたちは、婦人作家の低さと一口に云って、婦人作家の中にも彼等より立ちまさったもののいる事実を抹殺して了うのです。婦人作家だけが、さながら低い別世界にでもいるように。
 女の悲劇は、婦人作家論の中でくりかえしくりかえし見られたことですが、常に自然発生のノラ的なものと、それを発展させず、つまりは日本の女らしさに身を屈してゆく、その間の矛盾の姿、何といつの時期にも其々の形としてあらわれていることでしょう
前へ 次へ
全590ページ中516ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング