レの諷刺とゴーゴリの諷刺との性質の相異も感じます。サッカレのは諷刺においてもイギリス風よ。バーナード・ショウのつよい常識が偏見に対して一つの諷刺として存在しているように当時の英国新興ブルジョア気質、貴族崇拝に対して、サッカレの明るい眼と平静な心が、現実のものを見ていて、それが諷刺となっているというわけに思えます。
 常識というものがイギリスでは偏見に対して諷刺となり、日本の寛さんは、ショウの弟子のようなところから全く質の異った常識に立って通俗小説に行くところ(いつぞや歴史への態度でもふれましたけれど)面白いことね。老セドレとアミーリヤという娘が、株で失敗して苦しい生涯を送っていると、兄息子が印度で大した身分と金とをこさえて来て、それをひろい上げるというところもいかにもあの頃のイギリス気質ですね。ディケンズはいつも慈悲ぶかい紳士貴族を出して救いの神としたし、サッカレはもう一歩進取的で印度の役人にしてちゃんと救いの神の役を演じさせる。こういうところもいかにも面白く思います。日本の小説でこういう慈悲の神はいつも、人情としてしか登場していないことも実に意味ふこうございますね。例えば台湾で大した
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