いるんだもの、少くともあのときは。
日本のこれまでの大きい作家は、どうしても、みんな人生の正面へ向いてはいるのだが、主観的な自分の態度[#「自分の態度」に傍点]のなかへ入ってしまう。そこが残念ですね。そんな小さい主観に煩わされず、持味なんかふっとばして、生の人生へズカズカ入って行って、而もそこに独自な美しさもあらわせたらどんなに素晴らしいことでしょう。武麟の現実にまびれるのとはちがって、ね。
昨夜音楽をきいてチャイコフスキーの「悲愴《パセテーク》交響楽」をきいて、ああこのように人の心に絡みつく音を、と思いました、寿江子にそう云ったら「チャイコフスキーは二流」と云った。だから私はね、「二流でも五流でもいい、自分が、これだけ出せたら」と云いました。そしたら、やっぱりその点では唸っていました。それで面白く思ったのですが、音楽なんか余り世界的レベルからおくれているもんだから、日本の音楽をかく人間としての自分を世界の何事をかなした人々の間におく可能の点で考えられないのかしら、文学とはそれほどちがうのかしらと思いました。しかし、これは、そうばかりも思えず、寿江子の表現してゆく欲望の消極によるの
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