というものを万人のためのものにしようという科学上の本の親切な成功は、決して彼が巧なブック・メイカアであるからではありません。
 ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァン・ルーンという人が「世界人類物語」をかいて、これはもう二十年も前のものですが、「聖書物語」をかいて、とにかくイエスという人の生きた時代のローマとイェルサレムとガリラヤの関係を現実に理解させましたが、どうもホグベン先生の方が、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァン・ルーンよりも一層正面向きらしい。どんな本でしょう。『百万人の数学』もどっちもよみたいと思います。近頃よみたい本の二つ。
 このぴったり人生の正面へ、という態度、くりかえし考えて又々トルストイは偉いと思うし。人間のエネルギーというものは何とおそろしいものでしょうね。充実したエネルギーをもちつづけ得る人間だけが、人生の正面へ、ぴったり向ってゆき抜けるのですね。武者なんか、人生の正面側に向ってはいるが、この頃は大分お安居《あんご》で、のんきに眺めて「フムなかなかよい」という工合。動かしていない、動かされていない、そういう猛烈なところがないのです。
 私はバルザックがきらいでしたが、今にわかりそうです、どうもそういう気がする。私はきょう一寸お話ししたこと、「姉さんには頭が上らない」云々のこと、全く個人的な意味でなしに、私の胸をキューとしめつけて痛ましめる、そのようなものとして、しかもバルザック的に抉り出して見たいとしきりに思います。そこにひそめられている女の苦しい涙はどの位でしょう。平気そうに通用されているデカダンスの溝のきたなさ、深さはいかばかりでしょう。石坂の「若い人」およみになりましたか? 石坂という人は、そういう溝へ腕をつっこんでかきまわして、そのヌルヌル工合をああ云い、こう云い、云いまわして、そこに満足してしかもその芯は常識よ、きわめて常識よ。ですから、田舎から出て東京に住むようになると、かくものは、地方文化的自得の表情を失って、まるで木片をついだようなものになって来ている。ここいらも面白い。
 地方文化ということは、いろいろの問題をもって「若い人」のなかに及び「麦死なず」の中にあります。鶴さんは石坂論では、モチにかかって居ります、自分の心の、感情のビラビラのもち[#「もち」に傍点]に。石坂の面白がるようなところへ、おもしろがらされているんだもの、少くともあのときは。
 日本のこれまでの大きい作家は、どうしても、みんな人生の正面へ向いてはいるのだが、主観的な自分の態度[#「自分の態度」に傍点]のなかへ入ってしまう。そこが残念ですね。そんな小さい主観に煩わされず、持味なんかふっとばして、生の人生へズカズカ入って行って、而もそこに独自な美しさもあらわせたらどんなに素晴らしいことでしょう。武麟の現実にまびれるのとはちがって、ね。
 昨夜音楽をきいてチャイコフスキーの「悲愴《パセテーク》交響楽」をきいて、ああこのように人の心に絡みつく音を、と思いました、寿江子にそう云ったら「チャイコフスキーは二流」と云った。だから私はね、「二流でも五流でもいい、自分が、これだけ出せたら」と云いました。そしたら、やっぱりその点では唸っていました。それで面白く思ったのですが、音楽なんか余り世界的レベルからおくれているもんだから、日本の音楽をかく人間としての自分を世界の何事をかなした人々の間におく可能の点で考えられないのかしら、文学とはそれほどちがうのかしらと思いました。しかし、これは、そうばかりも思えず、寿江子の表現してゆく欲望の消極によるのでしょうとも思います。こんな些細なような言葉でも内奥は深くて、いろいろ面白うございます。ねえ、わが芸術は拙《つた》なけれども、というよろこび、わが吹く笛はとその響きゆく果を感じられるよろこびというものは、これは全く単なる才能の問題ではないのですものね。
 私はそのことを思って、思い極ったときは体が顫えるようです。私が作家としてもっている生活の条件、を思って。ああこれだけのファウンデーションと思うの、その上にもしわれらの楼閣をきずくことが出来ないとしたら、それは、果して複数で云える責任でしょうか。そう考えて、ね。私はせめて複数で云えるところ迄はこぎつけようと思う次第です。その漕ぎ方が、どうも原始的な二丁櫓ぐらいのところで、癪《しゃく》ねえ。まだ十八世紀の帆船迄発達していないようでいやねえ。バルザックは、ネルソンがトラファルガーで戦ったときの位の帆船よ、いろんな色の帆をはっているが。桜の花なんかと云い出して、ここへ納るところ、めでたし、めでたし。どうぞ私のおでこにおまじないを。

 四月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(柳瀬正夢個展より(一)[#「(一)」は縦中横]「蒙古人」、(二)
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