徹夜ナシでやりとおす決心です。徹夜なしで規則正しくやるとなかなか能率的です。三月は小説を二ツ(六十枚、二十七枚)入れて一六四枚かいています。読書は十三日から三二頁。先月はすこし無理でした。疲れたままこの月の仕事をしている感じで。では又月曜日に。これから久しぶりにおふろです、水も節約。それより時間がなかったので。
四月十一日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十一日夜 第二十六信
きのうの夕方も今夜も何と不思議な静かさのみちた晩でしょう。この間うち余り風が吹いて家じゅう揺れて、街では吹きまくられていたから、風がなくなった、こんなにしずかなのかしらと、あたりを見まわすようです。部屋の中も明るくて、底までしずかで。本当に何だかじっとしていられないしずかさ。
二階へ来て物干に出て見たら、西空の方にばかりどっさり星が出ていて、朧月もあって、その下に仄白く満開の桜の梢が見えます。家々の灯が四角や丸やの形で屋根の黒い波の下に見下せて、街燈がない界隈はしずかなそして不安な春の夜です。
この頃どうしてかちょいちょい街燈がつきません、大通りはついているのですが、家のまわり。
下弦の宵月、花の上の朧月。昼間は咲き切って、もう散りはじめた花が白くあっちこっちに見えて冷淡のように見ているけれども、こんな晩は春らしくて面白いこと。犬の吠える声が遠くにきこえたりして。こんなしずかで、しずかさに誘われて心が動くようなのこそ春宵の風情でしょう。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で五月、俄《にわか》に樹々が新緑につつまれて夜気の中で巻葉のほぐれる戦《そよ》ぎがきこえるような夜を思い出します。空気は濃くてね。公園のアーク燈に照らされた散歩道には、人の流れが絶えなくて。いくらアーク燈があかるくても照しきれない新鮮な闇がゆたかに溢れている、そんな夜の光景。ゆうべはこのしずかさが驚きで、ほら、思わずぐっすり眠って急にさめたとき、物音が耳の中で遠くにきこえるようなことがあるでしょう? あんな風でした。そして寂しゅうございました。
今夜は割合馴れて、しずけさの中に身をおいて、何か書くのも楽しいという工合です。
例年、私は花時分が閉口です。今年はややましな方かしら。神経が実に疲労いたしますね、今頃は。
きのう、あなたが、いかにも悠々して気分も悪くなさそうに笑っていらっしゃるのを見たら何だか頭が楽になって。きっと、それがきいたのね。この頃うち、頭が苦しくてね、袂の下へつっこみたくて仕方がなかった。
きょうはましですから、もう大丈夫でしょう。この数日間は、おそろしい能率低下ぶりでした。(手帖見たら、でも二三日です)そんなような顔して居りましたろう? 尤も私はいつも丸きおユリで不景気ぶりを表明しないのかもしれないけれど。
マア多賀ちゃんの療治のこともきまって、あとは、ずっとそのお医者の忠告にしたがってやって行けばよいから一安心です。費用は今はとりません。あとで相当のことをしなければならないのですが。
そのお医者はね、親切な人なの。津軽弁でね。ところが全く滑稽なことには、石坂洋次郎と大変よく似ている人なのです。石坂とはこの間座談会で一緒になって、その津軽べんもきいたし、顔も見たし撫で肩で小さい姿も見たし、満喫なので、白い上っぱりを着た人が、まるで似ていたら何だかこたえてしまって。可笑しいでしょう? でも作家は少くとも津軽産は一種の共通性をもっています。石坂、平田小六、深田久彌、太宰治、顔がつるんとしたようで撫で肩かどうかしらないけれども、現実に主観のこってりとした隈《くま》をつけて、一種の執拗さ、エロティシスム、ニヒリスム、あくどさ皆ある。深田が一番都会化して、それらを知的なものにしようとして中途半端ですが。そして狡さもある、芸術家として。薄情かと云えばそうだとは云えず。やっかいなものです。平田は、北京で頭一つ叩かれては五円借りて歩いている由。この平田がナウカのあった頃かいた「囚われた大地」という小説を、房雄はトルストイの作品に匹敵するとほめました。木星社に居た人。ですから私は評論集のときから知っていたから、「あなたもわるい時世に生れて、あんな小説をトルストイの云々ともち上げられる大不幸にめぐり合うのだから、しっかりしなさい」と云ったことがありました。
お医者様は、作家ではないし、又、種類もちがう人ですから(人となりが)私は撫で肩男一般への自分の好みを超越いたします。
ホグベンの『百万人の数学』は大変いい本だそうです。そしたらきょう同じ著者が『飢餓と疾病の撲滅』というような題の本をかいているのを見て(ホンヤク、出版)非常に感動しました。阿知の知性を又いうが、知性とか人間性とかは、こういう真向きの暖いものもある筈です。ねえ、数学
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