感じます。
 わかりやすく書くこと、それはテーマの本質上の深さを低くめたりすることではないということ。そのことはよく考えてかいてゆくつもりです。もし私がそういう傾向に陥るとすれば私の文筆の価値はないのですから。随分いろいろのものをかいて、かけて、しかし雑文は一つもないという確信をもてることは新しい文学の作家にとって絶対の必要ですから。
 玄人芸は根気仕事というの、里見の芸談のプラスとマイナス、これにも仰云るとおりよく出て居りますね。『文学』なんぞという作品は鼻もちならないものです。ヘミングウェイ、そう? 私ももう二階が暑さで苦しいということもなくなりましたから、この二月ばかりは昼間が実に能率的につかわれます。今年の夏は多賀ちゃんが下の部屋つかっていて、私ずっと二階で、そのあつさ。大分参ったのは其もありました。午前四時間から五時間一息にやって、午後すこし仕事して。相当よ。でもやっぱり所謂速筆ではありませんね。割合展開の単純な感想だと十五枚―二十枚は一日の仕事ですけれど、小説なんかやっぱり七八枚。
 何となく小説にかきたくて、まだどうかくか分らなくている一つの気持があるの。ここに一人の女があります。その女の少女時代の生活は、母と子とのいきさつで、子供にとって、母が子供を負担としているということがどんなに苦しく腹立たしいことかということを痛感するような生い立ちでした。子供を生むということについて、無責任にはすまい。そう思って成長して来ました。その女があるときに結婚するの。その対手のひとをその女はしんからすきで、そのひかれる心は健全で、その女が対手に対する自分の感情を自覚したときには同時に母となるよろこびへの渇望もめざまされていました。しかし生活の条件へのその女の判断はそのままの形でその欲望を実現させませんでした。その判断はあやまってはいなかったのです。その夫婦は、そのような判断への確信もともにもって充足して生活して来て何年かすぎました。あるとき、そのような生活の流れへ一つの春のさきぶれの嵐のような変化の予告、予想、或は想像がもたらされました。そのことによって、女の経験した内面的な展開は極めてリアルで激烈なものでした。女の生涯には幾度女としての誕生があるでしょうか。女の性格のうちには更に新しい何ものかが開花されました。感覚の豊饒さが加えられました。新しい命へつらぬく良人への
前へ 次へ
全295ページ中232ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング