味は非常に濃やかで且つ複雑で、自分としてはこういうテーマとして、今日かける面からの扱いとして、不満でありません。「日々の映り」のなかでは割合現象的にしか扱われていなかった乙女の後日の姿も、「朝の風」の中ではもっと深められて、単にサヨの重吉に対して抱いている感情との対比という範囲よりふかめられました。一番終りはサヨの妹が赤坊を生む夜あけ、ついて行ってやったときの場面。無事子供がうまれ、高い産声がしている。丁度朝になった時刻で、サヨは電話室のよこの中庭に露のおりている石菖の鉢を見ていると、どこからかラジオ体操のレコードがきこえて来ます。そのメロディーはサヨが重吉と結婚して間もなかった頃、初々しい朝の目醒めのなかできいたものです。そのメロディーを運んで来た朝の風は、二人の体の上をもとおった。サヨは今のよろこびに通じるそのまじりけのないよろこびのために涙をおとす。そういう心持が終りです。大変深いよろこびと安心と乙女への憐れさとこの涙と、透明な清冽さのなかになかなかニュアンスがあります。詩的です。リリカルであって精神の力に貫かれたものがあります。
 こうして、爪先一分ばかり、前の作品を抜いたわけよ。ジワジワとこれから各作で前作をぬくつもりです。どうかこの作も、私からのおくりものの一つとして下さい。
 七日のお手紙のなかの「アナウンスした」を「したと聞いたが」と訂正して下すったこと、私はうれしいと思います。御話したとおりに。ああいうところに私たちの生活感情の何とも云えない思いとその思いの美しくあり得る精髄がこもっているのですものね。それは全くそうよ。もしそういう感情が私たちの生活の一つの美として感覚されていないとしたら、たとえば、この間の大きい濤に私がゆられ、ゆりあげられた何日間かの心持を、そのあとにかいた手紙のああいう情感では受けられなかったわけですものね。ああ、でも考えればあの折(こないだの)私は半ばものぐるいでした。それはそうねえ。誰がそれを咎めることが出来るでしょう!
 ロマンティシズムの問題、そうだったの? この頃のような生活の周囲の空気だと、私は正しい沈着且つリアルな「見透し」そのものが、とりも直さず人間精神の美をなすものであって、その美の自覚された美感というものが、どんなに大切なものかということを深く考えます、バックの所謂自覚された正直さという表現のもっと成長した
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