よまれているのですって。ヘッセにしろ「たけくらべ」にしろ、そういうものを今の若いひとが心の休息所とするというのは何と可哀想でしょう。そういうことを若いひとは憤り、大人はそういう文化しか若いものに与えていないということについて大変慚愧するべきです。髪の毛を一分苅にされた頭で、その中では「たけくらべ」が訴えるものとして感じられているということは、何という深刻さでしょう。
ロマンティシズムについては、こう思うの。これまでの文学の考えかたの型では、いつでもリアリズム対ロマンティシズムという風に扱われて来ています。そして評論をするひとたちはその型のなかで語っているけれども、ダイナミックな文学では、こういう二元的対立はもう古いと思うのです。新しい文学評論の領域でも、リアリズムの究明はまだ、その対象として或は一つの要素としてのロマンティシズムを扱うところまで行っていなかったと思います。
この頃、自分の心持を考えてみても、そういう対立は間違っていて、ロマンティシズムはリアルなものの見とおし[#「見とおし」に傍点]から来る一つの美感である筈であり、丁度岩波新書の『北極飛行』に飛行士の描いた極めてリアルな推定に立脚しての推測の美のロマンティシズムである筈であり、未来が語られるという性格でロマンティックである筈だと思います。だから、リアリズムの時代的な(歴史の中での)発展の性格に対応していかなるロマンティシズムがあるかということが、リアリズムの方から今日は見らるべきでしょう。これは分りきっているようでいて、文学の評論家は一人もしていないことなのよ。即ち、彼の内部でリアリズムのファクターはそのところまで拡張もしていないし、複雑になってもいないというわけだろうと思います。これは、(そういう現実関係を見直してゆくということは)大変有益でしょう?
それともう一つ私がヘッセやトーマス・マンをよんで考えたのは「有用人」、「無用人」のことで、従来は世俗的無用人が芸術家であって、芸術家の側として其でよいという境地があったと思います。ところが昨今は無用人に存在権は許されない形があらわれて来ているので、その無用人の或ものは急に有用人になろうとして、そのことでは世俗的有用人との区別がつかなくなってしまっている。他のつとめ人と同じ内容で有用人になるしか知らない、つまり有用人になったつもりで文学の本質からは
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