無用人になって、歴史の永い目ではつまり全くの無用人であるということになります。
この歴史は十九世紀文学の流れの中から発して、日本にどうあらわれて来たか、二葉亭四迷のことを、その点から考えてね。マンやヘッセの時代の作家即無用人の考は、二葉亭のあの煩悶[自注6]とどうかかわりあっているのでしょう。十年ばかり前の文学の新しい本質をとらえたものは、無用人でなくて社会と文学に有用人でありうる統一を学んだのであり、そこにしかこの統一はないのですが、所謂「純文学」はそういう実に大事な成長の輪を一つおっことしていますからね。「純文学」における自我の崩壊、それにつれての通俗化、猥雑化と、この無用人、有用人の関係はつながりがあります。
二葉亭についておもちになる興味の核心はどこでしょう。最も早いエゴーの目ざめとして? トーマス・マンは、家族の血統の廃頽(世俗的)のとき芸術家が出るとしています。「ブッテンブーロークの一家」でそれを語っているのだそうです。こんな考えかた――そこに発展[#「発展」に傍点]を見るという――何とドイツ哲学亜流でしょう。結果から現象的にさかのぼる方法。二葉亭についてかいて下すったら面白いでしょうねえ。中村光夫のはよんでいませんけれど。忘れず、ね。
『明日への精神』やっと出ました。表紙は白でフランス綴です。小磯良平のトンボがかいてあって、題は朱。トンボの色は写生風で瀟洒としている(そうです)が、私は自分の量感が出ていないで余り感服いたしません、表紙なんか私がどうかしらと云うのは賛成しないのよ、だから何だかもり上って来る感じにかけていてがっかりですが、第三者はきれいですって。皆がそういうそうです。三千だけ刷ったが、第二日でもう千部刷るという話が配本の方から出ている由、まだわかりませんが。本のつくりかた雑なのよ、ですからすこし悲しいのよ。折角なのにねえ。でも、出ましたからよかったとしなければなりません。
日本評論社の現代文学読本(何人かのひとと一緒の)案外によく出ましたって。やはり又増刷した由。一ヵ月で珍しい由。しかしこれは版権はないのですから。
明日で金星堂の方も刷りにかかります。文芸評論の原稿もわたしずみになります。そして、中央公論社にわたしたら吻《ほ》っとね。〔中略〕
達ちゃんたち、組合と近所の女のひとたちをよんで秋にお祝をいたしますそうです。お砂糖が足
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