を示しているとともに、そのこと自身すでに自然主義へうつりゆく潮先を暗示するものであったこと、晶子の自然発生の感性の発揚は、しかし文学上の自覚としての文芸理論をもっていなかったこと、一葉もそうであること(これは今日までの一般の婦人作家の特長のようですから)、そこに問題が明日へのこされていること、そして、彼女のかいた評論、随筆のリアリズムと歌のロマンティシズムに分裂があって、そのことは評論に彼女独自のリズムや詩情を盛ることが出来ず、――理性を詩にまで高める力がなくて、あり来りの男のような文章(つまらない)にしていること、その分裂は多様性と云えないことなど。
 この前かいたときにはまだ足さぐりで、ゴタゴタなの。一年一貫したテーマで勉強したということは、やはり決して軽々なことではないのね。この仕事は本当に立体的な成長を語るもので、個人的の範囲をいくらか出ていて、うれしいと思います。自然主義のところで、女は文学の発足において、男が女に人間を十分認めないことに抗しているのだから、女を雌のように見る卑俗ナチュラリスムには入れなかったこと、などにふれ、反自然主義の青鞜あたりから大分手を入れないでよかりそうです。全く見ちがえるようです。断然ちゃんと気のすむまでやらなければなりません。
 河出の本、重複はさせますまい。十一月号にかく小説を入れます。それは「日々の映り」をかき直すの。
 小説についてね、私はすこしこの頃考えて居ります。
 私の評論は何故読者にとって感銘的なのでしょう。普通それは、頭脳的に云われているのよ。勤勉であること、よくくい下ること、緻密で熱があること。俗に頭がいいから云々と。でもそれはちがうと思います。私の評論には自分が腑におちるところまで辿りつめる探求があります。だから、ある感銘をもっているのだろうと考えます。決して所謂頭のよさなどという皮相のものではありません。
 小説を、どういう心の状態でかくでしょうか。昔かいたときは、あるテーマにうたれて、その一筋をたどってかいて行って、自分にわかっていたのは、そのテーマの範囲だけでした。しかし今は、自分として解決したところに立ってかいているような気がします。勿論作家は解決したところに立って(何かの形で)かくのではあるが、何というかしら、心理の解決に到った道筋をまた逆にねばって戻ってあの小路この小道という風に歩かないのね。こ
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