雑誌としては『文芸』、『新潮』がのこる模様です。一枚一円五十銭が最高の『文芸』でも、文芸のための雑誌といえば、やはり誰しも愛着をもっているのはうれしいところでしょう。綜合雑誌もずっと減るでしょう。そういう会[自注5]でどこかの記者が講談社に、きみのところはいくつもあるからすこしまとめてはどうかいと云ったら、曰ク、日本は僕のところから出る雑誌さえあればほかのはなくたっていいのだ。なるほど講談社にちがいないと大いに笑いました。学校内のいろんな雑誌、学生の文学の同人雑誌なども紙がないから出すのをおやめといわれています。紙がないということでそれならいい本を出すということとは別なのです、今日の性格ね。
詩集のはなし、詩集は本当に心をやすめ潤す力をもっているとおどろきます。手紙ひとまとめに風呂しき包みになるのもいいけれどそれらのなかにちりばめられてある詩の話も、やっぱりいっしょに包みこまれなければならないのは不便ね。そういう象嵌《ぞうがん》だけとり出して小さい宝|匣《ばこ》に入れておく魔法もなし、ねえ。
この間うちずっと座右にあったのは、『泉と小枝』というのです。ちいさな灌木のしげみの蔭に一つの泉がふき出ています。朝も夜も滾々《こんこん》とあふれています。ふと、その泉のおもてに緑こまやかな枝の影がさしました。泉はいつかその枝の端々までをしめらした自分が露であったことを思いだし、しかし今映っているその枝が影であるとは知らないの。泉にはどこまでも現《うつつ》に感じられて、その小枝を湧きでる泉のなかにその底へとらえようと、いよいよ水をふきあげ虹たつばかりにふき上げます。ふき上げられた水のきらめきは、枝の影のうえにおちて自身のあまった力できつく渦巻き、ふちを溢れて日光の裡に散るばかりです。緑の小枝、緑の小枝、どんな季節の一日に、泉の面にその枝さきをひたすだろうか。枝のさきからしみわたる水の心地よさ。葉末葉末につたわって、すこやかな幹を顫慄《せんりつ》させる泉の深い感応。
おのれの影に湧き立つ泉のメロディーは、いつしか緑の枝にもつたわって、枝はおのずから一ひらの葉、二ひらの葉を泉の上におとします。枝がおとすのか、葉がおのずから舞いおりるのか。水も燃えるということがある。泉のしぶきは焔のようにその葉をまきこみ、きつくきつくと渦に吸い込んで、微妙なその水底へ横たえます。しかも緑の梢は遠
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