かったところだけは買って下さるでしょう。その濤のしぶきの間に益※[#二の字点、1−2−22]陰翳こまやかに黒くはっきりと耀いている二つの眼を見失わなかったということは。そしてその正気の美しい眼も、正気のままにやはり同じ濤の頂に運ばれたことは、思えば思うほど忘れることが出来ない。そういう形で溢れる豊かさ、爽やかな生活力そのもののような戦ぎ。
 買いもののことを仰云ったりしたとき、そういう無垢な美しさそのいとしさに私はうち倒されるようでした。あのとき出した私の声のなかには聴えない絶叫がこもっていたようなものです。
 このお手紙のなかには本の名のことが云われていて、本は僕等の云々とかかれています。この前の手紙にちょっと私が云っていたこと、自分の心と肉体の奥でめざまされるものといっていたこと、それはあなたが本について云っていらっしゃるこのところへ真直つながるものでした。私たちは今日までの生活のうちでいろいろなものを互に与え合って、あたしはあなたにあげられるいろんなものをみなあげているけれど、それでもまだ一つはのこっていることをはっきり感じたの。私たちにもっていいものがまだ一つはあることを感じたの。傾きかかるサスペンスのなかで。現実の形であらわれたかどうかは、勿論わからないことです。けれども雄壮に滔々とおちかかる滝の水のしぶきを体に浴びるように感じながらじっと見ている滝壺の底には、そういう身震いするように生新なものさえあったのは現実です。これはあなたに大変意外? そうではないでしょう? そしてこういうことは何か極めて人間生活の優しい優しい深奥にふれたことであって、一生のうちにそう度々は語らないということもおわかりになるでしょう? 喋ることではないわ。感じ合うことだわ、そうね。こういう二人の心をうたった詩はないでしょうか。年ごとにわれらの詩集は単純から複雑へすすみ、なお清純な愛と生命の属性である簡素は失われない。真の抒情詩の美はここにあると思います。
 あの本の題は、きょうおはなししたとおりのを入れて、ゆとりと確りさのあるいい題ね。明治のごく初めの婦人作家から入って来るのですからやはり近代日本がついてようございます。きょうは『明日への精神』のための短い前がきをかきます。それから『文芸』の切りぬきを整理し、筆を入れてまとめてしまいます。〔中略〕
『文芸』といえば、雑誌の統制で文学
前へ 次へ
全295ページ中187ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング