変遠くにおいて感じてさえ随分切迫した感情を経験していたのですもの。そして、今の思いになってみれば其に大変加わる立体的な奥ゆきがあって、その立体的なものは、男の心とまたおのずからちがった女の心と肉体との底に眠っているものの目ざめのようなところがあって。色あいときめのこまやかなこういう苦しさ。では又ね。
   甲 三
   乙 八
   丙 二
[#ここから7字下げ、「乙」の行の下から]
このところ、でもいくらかごちゃついて。床に入っていて眠らなかったこと、どっちへ入れたらいいのでしょう。
本よみは休みです。じき又はじめますが。
[#ここで字下げ終わり]
 ではおやすみなさい。

 九月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月六日  第六十一信
 四日朝のお手紙。あああなたは笑っていらっしゃるのね、私だってつり込まれて笑うけれど、馬のやせるのはたべるものがないときよ。そこが馬の馬たるところよ。私は人間で、れっきとした女で、だから肥ったってやせるときもあるというのは全くユーモラスね。しかし、ユーモラスという表現には、何と含蓄があるでしょう。何とこまかい眼差しのニュアンスがこもっているでしょう。
 この数日に経験した心持は、何かおそらく一生忘られないところがあると思います[自注4]。ね、人間の心に何年も何年も一つのことが保たれている、保たれているのは、それが散りぢりにならないのはそこに大した力がこめられているからでしょう。ある瞬間、その永年のサスペンスとなっている力の全部がうち傾いて、生活の中に滝のようにおちかかって来ようとする、そういう刹那の感覚。それは決してある事が別の状態になるというような平坦な継続ではなくて、まるで目のくるめくばかりの力の飛躍、いのちの飛躍です。しかも、そのような巨大な転換が刻下に生ずるのではなくて、今にこれだけの総量がおちかかるのだろうかとそのボリュームをはかりつつ、滝壺の深い深い深さをも感じる心というのは。それだけの力の傾きを将に間一髪のところで支えている心というのは。
 大波小波のうねりにしろ、大きい大きいうねりでした。わたしは泳ぎが出来ないで残念ですが、でも、高い高い濤にのって、その頂に運びあげられたときにも、気を失わなかっただけはめっけものであったとお思いになるでしょう? 息がろくに出来ないようになっても、バシャバシャやらな
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