九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月十九日夜  第五十六信
 いそいそと二階へあがって来てね。随分久しぶりの夜の机です。多賀子、冨美子、恭子、三人づれで夕飯後銀座へ夜店というものを見に出かけました、私はそれから風呂に入って、まだいくらかポッとしてめがねがくもる位の湯上り。
 きょうは三十一度でした。大体この二三日二十九から三十ぐらいだのに、残暑のあつさは格別なこたえようをするのでしょうか。
 あれからずーっと三田へまわりました。四国町に昔西村の祖母が住んでいて、向島のおばあさまと云いならわしていたのが、三田のおばあさまというのは馴染《なじ》まなくて、妙だったのを覚えています。さつまっぱらというところで市電を下りて、歩いて行って左へ入ってそこの二階からは海が見えました。今考えてみれば祖母は一彰さんというあととりとけんかをして、秘蔵娘の住んでいたとなりに小さい家を借りて住んでいたのですね、そしてその婿さんに一文なしにさせられたというわけでしたろう。法学博士でしたからそういうことに通暁している由、よく親族会議からかえっては母がおこっていました。
 そんなこと思い出して市電にゆられて行ったら、四国町という停留場がありました。四国町もやっぱりあっちこっち向いてひろがっているのね。東電について右へ曲ると町並はすっかり裏町めきますね、あのあたりは。更に左へ入ると下うけ工場の小さいのが軒並です。薄暗いところに真黒に油じみた工作場が口をあけていて若いものが陰気に働いています。そこを行ってタバコやを曲ると、町並は一しお細かくなって、こまごました日暮しの匂いを漂わしています。駄菓子ややなんかある。そこを一町ほどゆくと右手にすこし大きい西洋建があって目をひきます。そのとなりに古風な黒板塀の家があって、黒板塀の上から盛りの百日紅《さるすべり》の花がさし出しています。その町すじに黒板塀の家なんかたった一軒、そのお医者さんのところだけです。なかなか一風ある家のたたずまいでしてね。門の上に、ほら昔の東京名所図絵の版画なんかにランプの入る角形の街燈が、鉄の腕で門の上についている風景がありましょう? あのとおり昔ながらの角燈がついていて、そのあたりには医者らしい広告の棒もなければ、電柱の広告もしてないの。医院ともかいてないの。普通の標札だけ出してあって、日よけの簾の二三枚たれたしも
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